Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の21年間の実践理論

おおらかな心で 第1話「正しくなくてもかまわない」

正しくなくても

(2020.6.14  リライト記事)

 世の中には、良いとか悪いとか様々な判断基準があり、人々はそれを言いたがります。でも突き詰めて考えてみれば、良いとか悪いとかは、一概には言えないことだらけで、本来的にひどく曖昧なものです。元々曖昧である「良い悪い」を「正しい」としている世の中に、私は昔から疑問を持っていました。

「おおらかな心で」の第壱話は、そんな「正しさ」と言うことについて書いた内容になります。たわいもない話ですが、徒然なるままに書きます。

 

 

正しくないとき、どうしますか?

 高校時代、お昼になると、友達と一緒に学校の購買(食堂)でパンとかカレーうどんとかを買うのが日課となっていました。 

 家からお弁当を持ってきてはいたのですが、それでは足りず、お弁当と一緒に食べる温かいうどんが格別に美味しく感じたのです。 

 その当時、かけうどんは200円、カレーうどんは220円でした。 

 購買のおばちゃんとも、だんだん顔見知りになってきます。

 私の友人は、なかなかの色男で、購買のおばちゃんも目をつけていたふしがあり、友人を見つけると、 

佐藤君、かけうどんかい?」

と嬉しそうに名前を呼ぶのでした。

列に並んでいるときも、姿を見つけると大きな声で

佐藤君は? かけうどんかい?」

と、私たちの前に並んでいる人を無視して聞くほどでした。

 

「今日は、カレーうどんでお願いします。」

と友人が答えると、

佐藤君、カレー、ちょっと多めに入れておいたからね!」

と大盤振る舞いです。

 

 ちなみに、私にはちっともサービスしてくれません。そのようなえこひいきがまだ通用する時代だったのです。他の人にうどんを出すときは

「はい、どうぞ」なのに、私の友人にうどんを出すときは「はい、佐藤君、どうぞ」と、丁寧に名前を呼んでくれるのです。

 

 ある日、私は友人に聞きました。

「前から気になっていたんだけど、なんで佐藤君って呼ばれてるの?」 

 すると、友人は

「よくわかんないけど、いつの頃からか、佐藤君って呼ばれるんだよね」と。

「佐藤君じゃないんだから、本当の名前を教えてあげたらいいんじゃない?」

「いや、もう、佐藤君でいいかなって。」

「・・・そうなんだ。」 

 

 高校時代のことを思い出していたら、そんなくだらないことが思い出されました。本当は佐藤君じゃない佐藤君は、長らくお付き合いしていますが、怒ったところを見たことがありません。何でも「いいよ」とか「いいんじゃない」と、いつもおおらかです。

 

正しさは変わらないという事実

 良いとか悪いとかはひどく曖昧で、その時代背景や地域によって変わります。教育界では「ゆとり」が良いとされたかと思ったら「学力重視」が良いと、180度の方向転換がなされるように、ひどく曖昧なのです。

 しかし、「正しさ」という事に関して言えば不変です。「不易」と「流行」は表裏の関係に在ると言っても過言ではないでしょう。

 大昔、コロンブスが地動説を唱えたとき、世間は天動説。それでコロンブスさんは迫害をされたのですが、「それでも地球は動いている」と言ったという有名な話があるように、真理・真実というものについては絶対的に正しいのです。

 

 斉藤ひとりさんの本にも同じようなことが書かれていました。

 ひとりさんは、誰かに「君、間違えているよ。」と言われたら、「そうですか。」とすんなり受け取ってしまうそうです。相手が間違えていてもそうするそうです。なぜかというと、「それでも地球は動いているから」なんですって。

 これは、とても深い言葉で、つまり正しいということには変わりはないので、それを頑張って主張する必要はないということを言っているのです。例え「間違えている」と言われたとしても、真実・事実というもの自体は、ただそのように存在しているのであって、自分で力説しなくても、正しさは変わりようがないのだから、頑張る必要な無いということです。

 

 おおらかさとは、他人の言動に左右されない人に備わる感覚なのでしょう。

 

 カレーうどんを食べる時は、白い服だけはやめましょう。

 

 もし、第1話を楽しんでもらえたのなら、第2話も読んでみてください。 

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