(2019.10.28の記事をリライト)
私は人の心配などしません。そう言うと「冷たい」みたいな反応がありますが、
私は「心配しないというのは温かいのだよ」と反論します。ところが、この説明がなかなか評判が悪いのです。評判が悪いというか理解されないのです。
なぜ心配は温かいのかということを説明します。
あなたが誰かを心配することは否定してません
「心配しちゃいけないの?」とか
「相手のことを思っているから心配するのよ」なんて反論されます。
しかし私は、議論をするつもりもないのです。
私が言っているのは「私は心配しない」ということと、「心配しないのは温かい」ということだけです。それを信じろとか、心配してはいけないなんて言ってはいません。信じてもいいし、信じなくてもかまいません。
分かってもらえなかったらどうしよう・・・なんて心配もしていません。
反論したい人は、きっと「心配しない」=「無関心」だと言いたいのかもしれません。それなら冷たい人だと言われても、納得します。
だけど、私は「心配しない」=「見守っている」ということをしているのです。
もし、助けを求められたら、いつでも力を貸します。
でも、求められなければ、見守っているだけです。
求めているという状態は「助けてー」と言葉にすることではありません。
それを言えないけどSOSを出している場合が多いので、それを読み取る必要がありますが、「読み取る」ということについては、ややこしい話なので、また今度。
心配するのは不安
「心配しないのが愛」というタイトルをつけたので、逆にしてみます。
「心配するのは・・・・・?」
答えは「不安」です。しかも、自分自身に対する不安です。
ですから
「心配するのは不安」というタイトルでも良かったんですが、前回「心配しないのが愛①」としたので、②というタイトルにする必要があってそうしました。
さて、これを応用してみましょう。
「・・・・」のところには、「愛」か「不安」が入ります。
①「ありがとうという感謝は・・・・」
②「ごめんなさいという謝るのは・・・・」
③「嫉妬は・・・・・」
④「怒りは・・・・」
⑤「叱るのは・・・・・」
⑥「褒めるのは・・・・・」
⑦「泣くのは・・・・・」
⑧「なぐさめるのは・・・・・」
⑨「人の役に立ちたいと思うのは・・・・」
⑩「異性にモテモテになりたいと思うのは・・・・・」
どうでしょうか?
中には、「不安」も「愛」も両方入りそうだというのもあります。
それはそれでいいのです。
深く、より深く考えていくと、時と場合と、その人の状態によって、両方入るというのが正解ということが、実はたくさんありますから。
つまり、深く深く考えると、それは動機によるだろうというところに行き着きます。
動機が愛ならば、すべて愛に基づく結果が得られ、
動機が不安ならば、すべて不安に基づく結果になります。
一般的には、日常的には、多くの人は?と考えれば、どちらかが入ります。
もしも、教師(保護者)自身が愛に溢れ、
子ども達に愛の言葉、そして動機が愛の言葉を与え続けたら、
きっと子ども達はみんな元気になりますよ。
さあ、パワーストーンの力を借りて、愛のエネルギーを充電しましょう。
……そんなこと、できるのかなぁ~。