地元に新しいスーパーができました。
レジで会計すると、その横にあるレジに自分でお金を入れて、おつりを受け取るというシステムです。
「すき家さん」に行った時も、同じシステムでした。
本州ツーリングでは、高速道路の降り口が無人化されていました。
数年前、旭川の大手回転寿司屋さんに行った時は、受け付けも注文もすべて機械化されていました。ロボットが片言の言葉で案内してくれます。
最近のニュースでは、コンビニ問題の突破口として、24時間営業の縮小に合わせて、無人化の実験をしているところもあるそうです。
この無人化をどのように考えるのか。
効率化、スピード重視、利益追求などの視点に立てば、良いのかもしれませんね。ですが、上記の現象をお客として関わったら、寂しいのではないかと私は実感をもって感じています。
無人化で十分な場所もあるでしょう。
だけど、無人化してはいけない場所もあるでしょう。
お金だけを目的にすれば、無人化で良いこともあるでしょう。
でも、お金だけが目的だとすれば、やっぱり寂しくないですか?
やりすぎです。
正確には、やり過ぎようとしています。
だから、きっとやり過ぎるまでは気付かないでしょう。
仕方ないのだけれども、私なりの一石を投じます。
無人化とは、人と関わらなくてもすむという状態を増やします。
しかし、人の成長(本当は魂の成長)は、人と関わることなくしては難しい。
人は、人と人の間で、「人間」となるということを何かの本で読みました。
(毎回書いちゃってますが、何の本だっけな~。)
つまり、営利とか効率とかを考えれば無人化や機械化は良いのでしょうけれども、人と関わることで成長が起こるので、全てをコンピューターや機械に渡すのは、成長の機会(具体的には感情の成長)を放棄するということです。
有名塾が、有名講師の講義をネット配信する。
でも、その講師のリアル講義には、勝てないでしょう。
大好きな有名人をテレビで見て、嬉しくなる。
でも、その有名人が直接握手してくれたら、嬉しいどころじゃないでしょう。
親が何不自由なく、物と環境を子どもに提供する。
でも、親が一緒にいてくれる効果に比べれば、はるかに劣るでしょう。
理科の授業では、実験とか観察とかが中心となる単元がたくさんあります。
どうしても実験道具が用意できなかったり、植物の時期がずれていたり、そもそも無かったりしたときのために、ビデオを活用したりします。
ビデオはとても分かりやすいのですが、子ども達の目の輝きはリアルにはかないません。目の輝きが明らかに違います。
物や植物との関わりにおいても、明かな違いが見られるのですから、それが人になれば、その影響の強さは計りしれないでしょう。
例えばもし、教育も無人化すれば・・・・・。
おそらく最も困難な事態になります。