(2020.6.14 リライト記事)
友達と親しくなると、あだ名で呼び合うということがよくあります。大抵は名前を省略したり、最後に「ちゃん」とか「タン」などをつけます。誰が言い出すのか分かりませんが、あだ名は広く普及し、やがてみんながそのあだ名で呼び合うという現象が起こります。変なあだ名でない限り、それはもう固有名詞のような存在になってしまいます。皆さんにもそんな経験があると思いますが、今回の記事は、変なあだ名をおおらかな心で受け止めている友達のお話です。
変なあだ名をつけられたらどうしますか?
私が中学生だった頃、エロキというあだなの友達がいました。
私とは小学校が違うため、私と出会ったときはすでにみんなからエロキと呼ばれていました。だから、私もエロキと呼んでいましたが、ある日、ふと疑問に思い、その変なあだ名の由来について聞いてみました。
「ところでエロキってあだ名だけど、本当の名前は何なの?」
「ひろきだよ。」
「ふーん、エロいからエロキになったの?」
「いや~、全然違うんだよ。」
「えっ、どういうこと?」
「友達がエロい話をしてて、そこにたまたま俺が行ったら、自分たちがエロい話をしていたのに、俺のことをエロキって呼んだのが広がっただけだよ。」
なんという冤罪でしょう。
「それじゃあ、その友達がエロキというあだ名の生みの親なんだね?」
「そうそう。」
「じゃあ、エロキはエロいわけではないんだね?」
「俺、そういう話、一回もしたことないって。」
と笑いながら言うのです。それで、
「そのあだ名、イヤじゃないの?」
と聞いてみたんですが、
「別にそれでもいいかな~って」
ですって。
なんとおおらかな心の持ち主なのだと思ったものです。男子はもちろん、女子まで「エロキ」と普通に呼んでいるのです。もうエロキはヒロキを越えた存在にまで成長し、エロキという名前そのものの持つイメージ、つまりはエロいみたいなものさえも越えてしまっているのです。
これは、存在自体があだ名を越えちゃっているということで、凄いことだと思うのです。今、改めて考えてみれば、プロ野球の松井さんが昔、「ゴジラ」というあだ名を嫌がっていたという話を思い出します。
松井選手は、その「ゴジラ」というあだ名を受け入れ、活躍し続けることで由来となっている「ゴジラ」を越えた存在になったのだという話を何かの記事で読んだのですが、それと類似しちゃってます。
あだ名は距離感というひとつのまとめ
先日、クラスの女の子が「私、あだ名ないの。」と言ってきたので、「先生がつけてあげようか?」と言ったのですが、「いや、いいです。」と断られてしまいました。
その女の子が言うには、みんなはあだ名があってうらやましい、私も欲しいけど、誰もつけてくれないということだったのですが、先生がつけてもダメなのです。どうしてもそれは友達に自然発生的につけてもらわなくてはならないのです。
そう考えると、あだ名がつくというのは、友達との距離のバロメーターという役割もあるのだと思いました。また、あだ名と言うぐらいですから、多くの人に認知されなければ成立しないことから、友達の多さみたいなことを証明しているのかもしれません。いずれにせよ、女の子が欲しかったのは、もしかしたら「あだ名」そのものではなく、もっと友達が欲しいと言うことだったのかもしれません。