私は常々、若手教員に伝えていることがあります。
まず、自分で聞きなさいということ。
これは、主体的です。そして、自分で聞くと興味を持って聞くことができます。さらに自らが問いを持って聞くことで、自分が欲しい答えが返ってくるため、吸収されやすいという現象が起こります。
次に、聞きまくりなさいということ。
何もしないのに教えてくれるということは起こりにくいです。聞かれれば答えるけど、聞かれもしないことを教えるのは、実は難しいのです。さらに、聞かなければ分からないものは分からないままであるということです。自分で発見するという方法もありそうですが、若手のうちは難しいでしょうし、時間がかかりすぎます。
最後にこれが重要ですが「何」を聞くかではなく「誰」に聞くかが重要であるということ。やみくもに聞く時期も必要ですが、人によって色々なことを言います。
例えば、子どもが言うことを聞かないというときには、「叱ったらいい」という人もいるでしょうし「話を聞いてあげたらいい」という人もいますし、「様子を見よう」という人もいるし、「ほっときなさい」という人もいます。
どれもこれも、その人の中ではその人の経験から導き出された「正しい」答えです。ですが、聞いた人に当てはまるかどうかは分かりません。状況が色々違いすぎますからね。
でも、すべてを熟知する人は、安易な答えで終了しません。
必ず、聞いた人がどんな状況にいるのかを診断する「質問返し」をしてきます。
そして、状況を把握したあとで、聞いた人の力量を見極めてアドバイスをしてくれるはずです。たとえもっと良い方法があったとしても、その人が出来なければ宝の持ち腐れどころか、わけのわからない状況にもなりかねません。
ある日、後輩教員が私に聞きに来ました。
「子ども達が落ち着かないのは、愛情が足りないからでいいのでしょうか?」
「うん、状況はそう言ってるね」
「では、愛情をかければ良いのですね」
「うん、そうだね。」
「具体的には・・・?」
「うん、そうだなあ、たくさんかまってあげて、たくさん話を聞いてあげて」
「やってみます」
ということで、数週間後。
なぜか教室は落ち着きません。それどころか、わいわいガヤガヤとうるさくなっています。それで、少し状況を見続けました。
ということで、放課後。
「君は話をたくさん聞いているね。」
「そうなんです。そうなんですが、いっこうに落ち着きません。」
「あれはね、聞きすぎだよ」
「どういうことですか?」
「何でも聞けばいいってもんじゃない。聞かなくて良いことも聞いている。だから、何を言っても許されるゆるーい教室になっているんだよ。」
「なるほど、では、どうすればいいでしょうか?」
「うん、そーだなー。状況によってはしっかりと叱らないと落ち着かないだろうね」
「やってみます」
ということで、数週間後。
廊下で叱りまくっている姿を発見。
教室はやや落ち着きましたが、劇的な変化はありません。
それどころか、子ども達がおびえています。
ということで、放課後。
「あれはね、叱りすぎだ」
「どういうことでしょうか?」
「叱り方の問題だよ。あの叱り方では、子どもは傷つくだけで、改善はしない。というか、叱っているのではなく怒っている」
「では、どのように叱ればよいのでしょうか?」
「叱るにも色々あるけど、基本は愛情を込めて叱ることだよ」
「具体的には・・・」
(問答は続きます)
ということで、数週間後。
「どうだい? 教室は落ち着いたかい?」
「いえ、前よりは良いと思うのですが、やっぱり落ち着きません。」
「そうだろうね。やっていることはいいんだけどね。だいたいできているんだけど、もっと大きな問題があるんだよ。」
「それは何ですか?」
「それは、君の表情が暗すぎるという問題だ。」
「・・・・」
「暗い表情でいると、みんな暗くなっちまうだろう。だって、担任っていうのは、家庭でいうところの親だ。その親が暗かったら、家中暗いだろう?」
「でも、どうしても自分はダメだって思ってしまうのです」
「どうしてダメだと思う?」
「・・・どうして?」
「少なくても、俺は君のことをダメとは思っていない。それどころか、なかなか良いと思っている。」
「それは嬉しいですが、自分では思えなくて」
「それは、自分でダメだと決めているだけだろうね」
とまあ、話は進みます。
ということで現在。
教室はまだまだ落ち着きを取り戻してはいませんが、子ども達の表情はよくなってきました。その先生の表情も良くなってきたし、なにより、エネルギッシュになってきました。
あることを知りたいと思ったときに、そのことが単純ならばネットでググれば終了します。だけど、人間相手の仕事は単純ではありません。状況が様々すぎます。そして、心の問題が必ず関わります。というか、そっちのウエイトの方が大きいです。もう、大きすぎます。
ですから、一度聞いたからと言って、全部分かるということはまずありません。
上記の例では短く書いていますが、実際は随分長い時間話をしています。
それら様々な問いに、順番を見極めて教えられる人は、実はあまりいません。
ですから、聞きまくるという時期は必要だし、色々な人の意見を聞くということもある時期には必要でしょう。ですが、ここ一番というときには、「誰」に聞くかということが重要になるということを若手に伝えているのです。
その「誰」を選ぶのかもまた、若手自身が決めるのですよと。
選ぶポイントもあるのですが長くなるので、また今度!
(そんなのばっかりになってきたなぁ~)
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