世の中は、偽物の評価を低くつける傾向があります。
偽物のことを「まがいもの」ということもあります。
私は便宜上、「偽物」と「まがいもの」を区別して使用しています。
便宜上なので、本当の意味は、ちょっと調べてみないと・・・。
コピーはオリジナルを越えられない
音楽のカバー楽曲を、私は最初から良いと思いませんでした。
これは、ただのカラオケではないだろうか?
物まね番組、これも好きではありません。
似ているから何だろう?って思ってしまうのです。
ブランド品のまがいもの、これは全く興味すらありません。
そもそも、ブランド品自体に興味がないのですが・・・。
どうしてなんだろう?というのが私の最初の疑問でした。
長い間考えてきた結果、実は偽物には2種類あるという結論に至りました。
例えで3つ出しましたので、とりあえずこの3つで考えます。
【音楽】
私は昔から徳永英明が好きなんです。『風のエオリア』という名曲は何度聞いたことか・・・。ところが、徳永英明さんが『ヴォーカリスト』というカバー集を発表し、おそらくこれをきっかけに音楽業界はカバーCDを大量生産しはじめます。売れるのでしょう。だって、名曲を名ボーカルに歌ってもらうのですから、基本的には外れませんし、売れます。
私も最初は喜んで聞いていましたが、すぐに違和感が・・・。
私は徳永英明さんが好きなのです。だから、自分の曲を歌ってほしいのです。
人が作った歌を歌うのではなく、自分で勝負して欲しいのです。
ところが、同じように私は小室哲哉が好きで、小室氏がソロで歌った『Running to horizon』という曲は、TMネットワークで歌って欲しいと願っていたのです。つまり、カバーを願っていたのです。
それで、実際にそのようになったとき、とても良いと感じました。
つまり、それを生み出した者が加工するカバーは良かったということです。
長くなりそうなので、ここからは簡単に書きます。
【物まね】
物まね芸人の中で、コロッケは唯一好きです。
もう、物まねではなく、コロッケだから好きなんです。
【ブランド品】
ブランド品じゃなくても良い物は良いと感じますし、ブランド品でも魅力を感じないものもあります。要は、自分がどの部分に魅力を感じるかが重要で、私にとってはブランド品かどうかは問題ではありません。どのように生まれたのかに反応していると思われます。
1つ目の偽物は「まがいもの」
ある物をまねて創り出された物、それが「まがいもの」です。
姿形を似せて作ってはいますが、似せることに集中しすぎです。
ですから、オリジナルを越えることは不可能です。
なぜなら、オリジナルを生み出したときには、想いや願い、その時の苦労などがすべて濃縮されているのですから。姿形だけを模倣したところで、細かなこだわりまでは難しいでしょう。仮に細かなこだわりまで再現できたとしても、想いや願いは再現できません。
すなわち、繰り返しになりますが、オリジナルを越えられない。
だから、価値はオリジナルほどは感じられない。
ブランド品は本物だと言いたくなるかもしれませんが、全ての物がオリジナルということはないでしょう。やはり何かに寄せていくということは起こっているはずです。
物まねは、コロッケ以外の多くの芸人は似せることに集中しすぎです。
もし、いたとしても、今度はコロッケに似せることに集中しすぎです。
コロッケは、そのレベルにいません。だから輝くのでしょう。
似せた声だけを聴きたいのなら、本人の歌声CDを聞けば終わりますから。
2つ目の偽物は「人の為に生まれし物」
偽物とは「人の為」と漢字で書きます。
だから、元々は良い意味なのではないかといことを知りました。
熊の木彫りは、熊ではありません。
人形は、人ではありません。
人の為に作られた偽物です。
熊の木彫りと人形は極端な例ですが、私がたどり着いた結論は、人の為に作られた偽物には魅力があるということなんです。そもそも「守・破・離」という考え方があります。その「守」は模倣です。ですから「偽物」は大切なのです。それを「破」やぶり、やがて「離」離れていく。模倣それ自体で終わるわけではないのです。
でも「まがいもの」は「守」で満足しちゃっている。いえ、「守」すら出来ていない。自分のエゴの為(主にお金や見栄かな?)にある「まがいもの」と人の為に生まれし「偽物」には雲泥の差があるのだというのが私の考えです。
教育現場での違和感
数年前から、本当に気に入らない現象が起きていました。
学校で統一した指導をしましょうという運動。
立腰、手の上げ方、返事の仕方、ノートの書き方、板書の仕方、鉛筆の濃さ、筆入れの中身、教科書の持ち方、・・・などなどを統一すれば、教室が落ち着くということらしいのですが・・・。
本当にくだらない。くだらなくて、なさけない。
私ははじめから、全く無視しました。
そんなマニュアルには意味がないのです。
すべて「まがいもの」です。
いえ、誤解があるとまずいので、すこし擁護もしますが、どれも大切な指導事項ではあるのです。それはいいのです。ですが、ただ似せることに集中しすぎなんです。それらの指導事項のもつ本来の意味をわからないまま、ただ似せる「まがいもの」だということがいいたいのです。
「守」は大切です。でも、それをやれば落ち着くってことはないのです。
それをすれば、学力があがるってこともありません。
「破」「離」へ昇格するために「守」が存在するのであって、「守」で完結しているわけではないからです。
「まがいもの」で満足する教師にならないでほしいと若手には伝えていきます。
「偽物」はいいんですけどね。「人の為に先人の物まねをする教師」は良いに決まっています。そういう教師はやがて「破」を迎えます。「離」にたどり着けば一流でしょう。