Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

「偽物」には2種類ある

偽物


世の中は、偽物の評価を低くつける傾向があります。

偽物のことを「まがいもの」ということもあります。

私は便宜上、「偽物」と「まがいもの」を区別して使用しています。

便宜上なので、本当の意味は、ちょっと調べてみないと・・・。

 

コピーはオリジナルを越えられない

 音楽のカバー楽曲を、私は最初から良いと思いませんでした。

 これは、ただのカラオケではないだろうか?

 物まね番組、これも好きではありません。

 似ているから何だろう?って思ってしまうのです。

 ブランド品のまがいもの、これは全く興味すらありません。

 そもそも、ブランド品自体に興味がないのですが・・・。

 

 どうしてなんだろう?というのが私の最初の疑問でした。

 長い間考えてきた結果、実は偽物には2種類あるという結論に至りました。

 例えで3つ出しましたので、とりあえずこの3つで考えます。

 

【音楽】

 私は昔から徳永英明が好きなんです。『風のエオリア』という名曲は何度聞いたことか・・・。ところが、徳永英明さんが『ヴォーカリスト』というカバー集を発表し、おそらくこれをきっかけに音楽業界はカバーCDを大量生産しはじめます。売れるのでしょう。だって、名曲を名ボーカルに歌ってもらうのですから、基本的には外れませんし、売れます。

 私も最初は喜んで聞いていましたが、すぐに違和感が・・・。

 私は徳永英明さんが好きなのです。だから、自分の曲を歌ってほしいのです。

 人が作った歌を歌うのではなく、自分で勝負して欲しいのです。

 ところが、同じように私は小室哲哉が好きで、小室氏がソロで歌った『Running to horizon』という曲は、TMネットワークで歌って欲しいと願っていたのです。つまり、カバーを願っていたのです。

 それで、実際にそのようになったとき、とても良いと感じました。

 つまり、それを生み出した者が加工するカバーは良かったということです。

 

 長くなりそうなので、ここからは簡単に書きます。

 

【物まね】

 物まね芸人の中で、コロッケは唯一好きです。

 もう、物まねではなく、コロッケだから好きなんです

 

【ブランド品】

 ブランド品じゃなくても良い物は良いと感じますし、ブランド品でも魅力を感じないものもあります。要は、自分がどの部分に魅力を感じるかが重要で、私にとってはブランド品かどうかは問題ではありません。どのように生まれたのかに反応していると思われます。

 

 

1つ目の偽物は「まがいもの」

 ある物をまねて創り出された物、それが「まがいもの」です。

 姿形を似せて作ってはいますが、似せることに集中しすぎです。

 ですから、オリジナルを越えることは不可能です。

 なぜなら、オリジナルを生み出したときには、想いや願い、その時の苦労などがすべて濃縮されているのですから。姿形だけを模倣したところで、細かなこだわりまでは難しいでしょう。仮に細かなこだわりまで再現できたとしても、想いや願いは再現できません。

 すなわち、繰り返しになりますが、オリジナルを越えられない。

 だから、価値はオリジナルほどは感じられない。

 ブランド品は本物だと言いたくなるかもしれませんが、全ての物がオリジナルということはないでしょう。やはり何かに寄せていくということは起こっているはずです。

 物まねは、コロッケ以外の多くの芸人は似せることに集中しすぎです。

 もし、いたとしても、今度はコロッケに似せることに集中しすぎです。

 コロッケは、そのレベルにいません。だから輝くのでしょう。

 似せた声だけを聴きたいのなら、本人の歌声CDを聞けば終わりますから。

 

2つ目の偽物は「人の為に生まれし物」 

 偽物とは「人の為」と漢字で書きます。

 だから、元々は良い意味なのではないかといことを知りました。

 熊の木彫りは、熊ではありません。

 人形は、人ではありません。

 人の為に作られた偽物です。 

 熊の木彫りと人形は極端な例ですが、私がたどり着いた結論は、人の為に作られた偽物には魅力があるということなんです。そもそも「守・破・離」という考え方があります。その「守」は模倣です。ですから「偽物」は大切なのです。それを「破」やぶり、やがて「離」離れていく。模倣それ自体で終わるわけではないのです。

 でも「まがいもの」は「守」で満足しちゃっている。いえ、「守」すら出来ていない。自分のエゴの為(主にお金や見栄かな?)にある「まがいもの」と人の為に生まれし「偽物」には雲泥の差があるのだというのが私の考えです。

 

教育現場での違和感

 数年前から、本当に気に入らない現象が起きていました。

 学校で統一した指導をしましょうという運動。

 立腰、手の上げ方、返事の仕方、ノートの書き方、板書の仕方、鉛筆の濃さ、筆入れの中身、教科書の持ち方、・・・などなどを統一すれば、教室が落ち着くということらしいのですが・・・。

 本当にくだらない。くだらなくて、なさけない。

 私ははじめから、全く無視しました。

 そんなマニュアルには意味がないのです。

 すべて「まがいもの」です。

 いえ、誤解があるとまずいので、すこし擁護もしますが、どれも大切な指導事項ではあるのです。それはいいのです。ですが、ただ似せることに集中しすぎなんです。それらの指導事項のもつ本来の意味をわからないまま、ただ似せる「まがいもの」だということがいいたいのです。

「守」は大切です。でも、それをやれば落ち着くってことはないのです。

 それをすれば、学力があがるってこともありません。

「破」「離」へ昇格するために「守」が存在するのであって、「守」で完結しているわけではないからです。

 

 「まがいもの」で満足する教師にならないでほしいと若手には伝えていきます。

 「偽物」はいいんですけどね。「人の為に先人の物まねをする教師」は良いに決まっています。そういう教師はやがて「破」を迎えます。「離」にたどり着けば一流でしょう。

 

 

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