初任3年目の春、新しい学校長が赴任されてきました。その当時、私は持ち上がりの6年生の担任です。だいぶ自信めいたものもつきはじめ、さらなる向上を目指す血気盛んな若者でした。
各種研究会への積極的参加、専門書の読みあさり、ベテラン先生達への質問と教授、日常の多くを教師という仕事に没頭していました。学級も軌道に乗り、保護者との関わりも良好、子ども達も元気いっぱいで、テストの点数も良かった。
振り返ると、その当時はそう思っていたということです。でも、違ったのでしょうね。
紙芝居のような授業
「先生方の授業を見せてもらいたい」
という新しい校長先生からの依頼がありました。全クラスの状態を知っておきたいということでしょう。私は社会の歴史を見せました。特別な準備をしたわけではありませんが、見に来るということで、それなりの準備はしました。
放課後、私は校長室へ行き、本日の授業へのアドバイスを聞きに行きました。きっと「若いのになかなか良い」と言われることを期待していたのだと思います。ところが
「うーん、先生の授業は紙芝居みたいだ。」と言うのです。
子ども達は楽しいだろうけど、授業というのはもっと深いものだというのです。つまり、私の授業は浅はかであるということです。
にゃンだって!
私の2年間の努力が紙芝居とは! 私は本質、本道を目指していましたから、最も言われたくない言葉です。それで噛みつきました。
「それは、どういうところを見てそう思われたのでしょうか?」
もう、臨戦態勢です。論破する気満々です。校長先生はあれこれと、たくさん説明してくれましたが、全て反論しました(もう、何を言ったのかは覚えていませんが)。
1時間ぐらい問答を繰り返した後、
「校長先生の言いたいことはよく分かりません。そこまで言うのなら、そのような授業を見せてください。見れば納得します。」という私からの依頼と「考えてみる」という校長先生からの回答で終わりました。
校長先生との対談を終えた後、同じ学年を組んでいる先生も私の授業を見てくれていたので、話を聞きに行き、校長先生との対談の内容を伝え、先輩先生はどう判断するかを聞きました。すると、
「おまえ、校長先生にそんなこと言ったのか!?」と半笑いで反応し、
「まあ、今日の授業は70点ぐらいだな」と言われました。
「70点ですか・・・。」
同じ学年の先生との信頼関係はありましたので、その人から言われるのなら仕方ありません。認めます。
すっかり反省して、後日、校長先生に自分の非を詫びに行きました。詫びたら褒められました。そしてさらに数日後、
「うまく説明できないから、じっくり考えて書いてきた。是非、読んでほしい」
と、校長先生から文章を頂きました。
仁義ある者でありたい
自分が授業を見せられれば、先生の見本になれるかもしれない。だけど、自分は学級を離れてからもう何年も経っている。だから、先生の満足できる授業を今見せられるかどうかは疑問が残る。自分が自信を持てないものをお手本として見せることは、先生の将来のためにならない。だから、紙面にて、授業のポイント、あの授業の改善点を書くことでご了承願いたい。
と書き綴られていました。
学校の長が、まだ3年目の若造に対して、このような真摯な対応をしてくださるとは! 感動し、感服し、敬服しました。私は読み終えると、さらに自分の浅はかさを反省し、再び校長室へ。
感謝と感動を伝え、これからもどんどん指摘していただきたいとお願いしました。
私は心から校長先生へ忠義を尽くすことを誓ったのです。
そして、たとえ自分が中堅、ベテランになったとしても、校長先生のように「仁義ある者でありたい」と願ったのです。ちなみに、仁義とは、元々は仁義礼智の四徳からきたもので、孔子とか老子とかそういう時代からあるようです。
仁とは博愛・・分け隔てない心で接するということ。
義とは正義・・正しい道をしっかりと進むということ。
双方をまとめて簡単に言うと、「誰に対しても愛を持って礼儀を重んじて接する」ということです。
三国志に劉備という君主がいますが、人徳を備えていると言われています。人徳とは、四徳を備えた人のことなんだなーと、ついでにぼんやりと考えてみました。