とてもとてもややこしすぎるリクエストがありましたので、本当に簡単にですが、その理由をなるべく分かりやすく心がけてみます。でも、ややこしすぎる内容なので、普通の人には信じられないようなことも書くことになりますが、無理に理解しようとしなくても大丈夫です。理解できなくても害はありませんから。
「感情」とは何か
感情とは魂が持って生まれてきます。いきなり「魂」というキーワードがでましたが、ここを理解しない限り理解はできません。つまり、人間は「魂」を持っているんだよというスピリチュアルな世界の話です。続けます。
魂は、大きく2つの感情を持って生まれてきます。
「愛」と「不安」です。すべての感情はその2つからの派生です。
「愛」を知るため(厳密には思い出す)には、その対局がなければわからないので、「不安」という感情も必要だというわけです。
「不安」から生まれし感情の大きなものとしては「怒り」「羨望」「悲しみ」があります。合わせて5つです。これが大元です。これに「エゴ」という誰もが持っている仕組みが作用してしまいます。
エゴについては、さらに話が深くなりすぎるので、今回はやめておきます。
すべての感情は、必要があって生まれるのですから、毛嫌いしてはいけません。どれも大切な感情なのです。そういうことを映画にした「インサイド・ヘッド」というディズニー映画は、このことをテーマにしています。
感情はどうしようもなく不安に寄っていく
理由は簡単で、一番最初に接する人、つまり親にそのように仕向けられるからです。もちろん、親だってそんなつもりはありません。無意識です。無意識に「不安」を抱えているのです。その親もそのように育ったので仕方ない。そういう長い物語なんです。
ちなみに「愛」だって不安に寄っていきます。もう、世の中のほとんどの人はその状態です。不安に寄っていくと、それぞれの感情は不自然となり形を変えます。
「不安」は「心配」に。
「怒り」は「憤怒」に。
「羨望」は「嫉妬」に。
「悲しみ」は「うつ」に。
そして「愛」は「所有」に。
相手の事を常に「心配」し、自分の思うように行かないと「憤怒」し、取られそうになると「嫉妬」し、相手を支配や「所有」しようとして生きずらくなり、「うつ」になってしまいます。
「相手のことを愛しているから私のことも愛して」というのは、不安から生まれし愛であり、真の愛ではありません。おままごとです。本当の愛は無条件で、ただ与えるだけのものですから。
すべて感情を不自然に扱ったから「不安」に寄ってしまったのです。
幼い頃から、全ての感情を自然に扱えば、そうはならないのですが、幼い子どもにそんなことは出来るはずもないので、仕方がなかったと理解してください。
では、不自然に扱うというのはどういうことかごくごく簡単な言葉で表現すると、「全ての感情を認めないで蓋をしてきた」ということですが、難しいですよね。
例えば、何か嫌なことがあって怒っていると、親からは「怒っちゃダメ」と言われますね。例えば、悲しくて泣いていると「泣いちゃダメ」と言われます。例えば、楽しくて知的好奇心が旺盛になったときには、「そんなことよりも勉強しなさい」と言われます。すべて「あなたのためなのよ」という「心配」から生まれし大義名分もついてきます。「心配」の元は「不安」ですから、結局「不安」から生まれし言葉を与えているということになります。ただ、言うならまだ良い方で、何も言わないネグレクトという状態もあります。
でも、本当は「愛」がほしいのです。「無条件の愛」「本物の愛」です。
だから、その「不安」から生まれし数々の感情を「本当の愛」だと信じるしかないのです。少なくても、それを信じている間は、自分は愛されているということになりますから。
それで、そういう真実に気がついたときに、
あくまで自分で気づかないといけないのですが、
それらの自分の歴史を捨てられるのかと言う問題が出てきます。
人に教えられてもダメなんです。きっと、全力で否定します。
だって、これまでの自分の信じてきたものや愛だと思っていたことを素直に「違ったんだ・・・」と認めなくてはならないので、生きていくのも難しいほど大変な作業となりますから。
感情は変える必要もとりあえずはない
ちょっと説明不足な感じはしますが、以上のことを理解し、様々な実践をしていくと、やがて「捨ててもいいかな?」という状態になります。この状態になるためには、これまでに抑圧してきた全ての感情を解き放ち、「私はよく頑張った。えらかったね」と小さな子どもに言い聞かせるようにしていく必要があります。
そうすると、全ての感情は「分かってくれたんだ!」となって、自分の中で威張る必要がなくなり、自分から去っていきます。
これは、体験した人にしか分かりませんが、本当に去っていきます。
去ったあとは、過去の自分の感情を思い出すこともできなくなります。
ただ、昔はこんな感じだったという事実を覚えているだけで、その時の感情にはもう戻れません。
感情を変えようとするということは、感情の否定です。
「そんな感情はダメだ」と否定するということで、感情は
「私は悪くないもん! 分かってもらいない!」と怒ります。
でも、全ての感情を本当に受け入れて、自分の感情に
「そっか、そう思うんだね。それはつらかったね」と肯定すると、感情は
「やっと分かってくれたのね。嬉しい!」となります。
だから、変えようとしても変わらない。でも、受け入れられれば勝手に変わるのです。
全ての感情が「不安」から卒業し「愛」に根ざした感情になれば、不安から生まれし感情もすべて「愛」に根ざした感情として働き始めます。
「怒り」ですら「防衛の強力な味方」になってくれます。
「いじめ」を止める時に、「怒り」の力を借りるということがその一例です。
また、自分を不当に扱う者に対して「自己防衛」を発動するのも、自分を愛す感情から生まれし「怒り」なので、第一次防衛ラインとして強固な布陣を敷いてくれます。大変有り難い感情なんです。
まとめ
そんな状態になれることを、人は「悟りの状態」と言っています。
「悟り」の状態に近づくということは、自分の「感情」と仲良しになったということですから、後は勝手に変わります。というか、去っていきます。
どんどんお別れをすることになるので、若干寂しいような気もしますが、本当は去っていません。別の形に生まれ変わって残ります。それが「愛」に根ざした感情です。
「悟り」については、「仏教」の専門書にたくさん書かれていますので、もっと詳しく知りたい方は、私の説明よりも、そちらの方が分かりやすいと思います。
もう、自分で書いていても「難しいだろうな~」と思っていますので、本当に無理に理解しなくてもいいですからね。本当は書くつもりもなかったのですが、リクエストがあったので、書いてみただけですから。
もし、ここまで読んでくださったのなら、有り難いことです。
毎回、私が思うままに書いている文章を読んでくださり、ありがとうございます。
少しでもお役に立てれば嬉しいです。