私の受け持つクラスは、たいてい騒がしくなります。そして、楽しそうです。
そのようなクラスを願ったとしても、この現象を見た多くの先生は、何が起きているのか理解できません。元気がよいクラスと騒がしいクラスは紙一重ですから。
そして、経験がないから分からないのです。
ですから、分からなくても仕方ないのですが、経験することをお勧めします。
これから述べることに挑戦するには、それをやってみようというエネルギーが教師自体に溜まらないとできないので、あくまでお勧めするだけです。難しいので・・。
騒がしい教室が生む誤解
私の教室にサポートに来てくれている先生に、私のクラスがどう見えるのかを聞きました。すると、その先生は、理科専科の先生と同じ意見だという前置きをしてから、「授業中の私語が多い、つまり騒がしいクラスかな?」という意見でした。
これは真っ当な意見です。たいていはこう言われてしまいますから慣れてます。
つまり、理解できないのなら、ただの騒がしい教室で、それは良くない教室で、自分が授業をするのなら、やりにくい教室であるということなのです。
でも、私が授業をしているうちは、子ども達は楽しそうで、よく考えています。
「騒がしいと感じるだろうね。まだ新学期が始まってから2週間目だから、自分としても子ども達との距離感が収まっていない。だから、無駄話もあるし、授業とは関係ない騒がしさもあるとは、自分でも感じているよ。でも、子ども達の話し声に耳を傾ければ、今の段階でも八割ぐらいの不規則発言は、授業内容に関することを言っているはずだけど。」
「・・・・・たしかにそうですね。」
「それは、授業内容に関することをよく考えているということになるでしょう。騒がしいにも2種類あって、授業を壊す無駄話と、授業に関する無駄話で、授業に関する無駄話は考えている証拠なんだよ。」
「・・・・・たしかにそうですね。」
「私の授業は、他の先生達にはあまり理解されないけれど、それは、騒がしいと授業がしにくいという教師側の都合を考えているからだよ。そして、どれぐらいまで騒がしくても授業を進められるかは、その先生によるということなんだよね。」
「・・・・・なるほど」
「もう少ししたら、子ども達も私との距離の取り方が分かってきて、不規則発言だけど規則的になってくるから、何が起こるのかを見てるだけでいいよ。」
「全部勉強させてもらいます。」
という会話をしました。私の難解な理論を理解しようとしているこの先生は、子ども達の楽しそうで生き生きしている姿を見ているので、なにか感じるところがあるのでしょう。
騒がしい教室の理想型
子ども達の思考が一つの方向に向かい、すべての子ども達が自分の頭で考える授業、それを目指すのなら、当然騒がしくなります。でもそれは、心地よい騒がしさです。
これが進化していくと、騒がしいと思いきや、一瞬で静まりかえり、集中して作業を始める状態になります。そして、授業が終わると、心地よい達成感が生まれます。
だから、騒がしさを怖れてはいけません。
怖れなくてはいけないのは、騒がしさを怖れてしまう教師自身、つまり自分自身です。
おしゃべりの中に在る「無駄」と「有益」を見抜けない自分自身を怖れるのです。
怖れていることを認めた教師だけが、それを手放し、新たな授業観に向かうことができると言っても過言ではありません。