ある人にとっては「簡単」かもしれないけれども、ある人には「難しい」ということがよくあります。例えば「インターネットは簡単にできちゃう」という情報があったとしても、あくまでその人にとっては「簡単だ」ということであって、まるで知らない人にとっては「超難関」ということはよくあります。
もうすでに出来る人にとっては簡単であっても、それが未知の領域である人にとっては、全て難しく感じるという、共感的理解のお話です。
簡単だよという言葉は時にプレッシャーとなる
「簡単だよ」という言葉は、あることを終了した人だけが言える言葉であり、全ての人に通用する言葉ではないのです。
簡単な理論だよ
簡単な仕組みダヨ。
簡単なコトダヨ。
トテモトテモカンタンダカラ。
寄り添ってくれるのなら、一緒に取り組んでくれるのなら、「簡単」は安心できる言葉ですが、寄り添ってくれないのなら、未知の人にとっては、簡単であっても難しくあってもどちらでも大変です。
もし寄り添ってもらえないのなら「簡単だよ」という言葉は
「だからそれぐらいは自分でやってごらん」
という裏メッセージとして伝わるかもしれません。あるいは、簡単であるが故に、説明が雑になり、説明を聞いている分からない人にプレッシャーを与えるかもしれません。
だとすれば「難しいよ」という言葉の方が安心できるでしょうね。
難しい方が優しい
家電量販店が台頭し、ネットショップがさらに安く買える世の中になっても、地元の小さな家電店はつぶれないと聞いたことがあります。
その理由は、商売というのは結局のところ、人と人との繋がりで成り立っているからだそうです。本当は簡単であろうテレビとレコーダーの配線や電子レンジの使い方や、ちょっとした修理など、労力を惜しまずやってくれる人を老人たちは求めているのです。
これは、簡単なことを「簡単ですよ」と言っていないのです。
「それはお困りでしょうから、今すぐに行きますね」と言っているのです。
「それは難しいですね」という裏メッセージを伝えて安心させているのです。
未知の人にとっては簡単ではない簡単なことを親切にさっとやってくれる人は、頼れる存在であるということです。
難しい問題の方が嬉しい
教育現場も例外ではなく、
「今日の課題は簡単だよ」と前置をしてから授業をすると子ども達は嫌がります。
だって、簡単でみんなが出来て、自分だけ出来なかったら大変なことになりますから。そして、本当にみんなが分かって自分だけが分からなかったら、自分がダメなんだということになってしまいます。
「これは難しいよ」とか「君たちの力では難しいよ」とか、そういう前置きをして問題に取り組ませると子ども達は喜びますよ。
「だから、できなくたって全然大丈夫」という裏メッセージを出しているからです。
でも、本当は理解してほしいから、課題をクリアした子をどんどんミニ先生として派遣します。子ども達同士で教え合うという思わぬ副産物ができあがります。
簡単ではないが終了した人は簡単になる
私はここ最近、本当にこのことを理解してきました。
ブログのカスタムやアドセンス、アカウントとかURLとかドメインとか、何かの説明を受ける度に知らない言葉が、もうそれを知っているという前提で登場しますから、いちいち調べて、ひとつずつ解決していかなくてはならなかったのです。
そして、ひとつクリアする度に、それはやはり「簡単」であったのだとは思うのですが、それは「終了」したからなのだと考えるのです。
いま、もし誰かに
「ブログの運営って難しい?」
と聞かれたら、
「何も知らないのなら、相当ややこしいよ。」
と言います。
自分の世界観だけで「簡単」という言葉を簡単に使わないようにしよっと!