ブログときちんと向き合ってから(はてなプロへ移行してから)3週間ほどが経ちました。きちんと向き合ったので、これまでにはない程、パソコンの前で記事を書いたり、デザインを変えたり、ネットを通じて先人達の知恵を拝借しながら勉強してきました。
これは、努力なのでしょうか。
今日は、「努力」ということについて、掘り下げて考えたことをお伝えします。
「努力」はしていない
結論からいいますと、私はブログときちんと向き合って、時間をかけているのですが「努力」はしていないのです。忙しくもなく、慌ただしくもなく、辛くもなく、苦しくもないのです。では、「努力」ではなく何をしているのでしょうか。
では、順番に説明し、最後に「努力」に関する提案をすることにします。
1 努力とは何か
一般的には、「努力」は素晴らしく、「努力」は人々から賞賛され、「努力」はまるでそれさえあれば全てが許されるような免罪符になりえるほどの美徳とされています。昔から「努力」というものの価値について、私たちは一切の疑問を持たなかったように思うのです。「努力」という言葉の定義は何なのでしょうか・・・。
ウィキペディアにはこう書かれています。
「努力とは目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること」
なるほど、これならば私のやってきたことは「努力」で良いでしょう。
しかし、私の実感では、一般的な努力のイメージは「努力」=「苦しみ」みたいなところがあり、歯を食いしばってという表現は大げさかもしれませんが、簡単に言うと「嫌なことに立ち向かっている姿」ではないかと感じている次第です。
私はスポーツ歴が長いので、これはよく分かります。
部活動を支える精神みたいなものですから。
しかし私は、スポーツをバリバリとやっているときですら「みんなが言っているような努力」はしていないのです。
私は、他の部員よりもたくさん走りましたし、居残り練習も一番多くやりました。
それは別に苦しみに立ち向かっていたわけではなく、やりたかったからやっていたのです。しかも「努力しているな!」という風に見られてしまうので、もしこれが「努力」というものならば、たいそうな代物でもないなと、さして気にも留めていなかったのです。
でも最近、世の中の風潮が、世間の判定基準が厳しくなってきているような実感があって、あらためて「努力」とは何なのかについて理解し、整理しようとしているのです。
繰り返しになりますが、
「努力とは目標を実現するために、心や身体を使ってつとめること」
これに準じて考察します。
世間一般に「努力しないとダメだ」と言っている人の多くは、「嫌なことにも立ち向かえ」と言っているのではないでしょうか。それでは「嫌なこと」が目標になりませんか? ウィキペディアの定義に「目標を実現するため」という前提にあてはめるならば、嫌なことが目標になってしまいます。
結果として「嫌なこと(目標)」を実現するために、心や体をつかってつとめているという現象が生まれます。一般的にはこのことが多いので、歯を食いしばって進む姿を「努力」とイメージしているのでしょう。
ということは、
目標もなく楽しんでいるのは「遊んでいる」ですが、
目標を持って楽しんでいるのなら「努力」で良いということになります。
2 目標を楽しくする
目標が楽しければ、心や体をつかってつとめることも楽しくなるはずです。では、その目標を「嫌なこと」にしているのは何か・・・・。
その答えは「他者に押しつけられている目標」だと考えます。
自分で目標としたのなら、楽しくなるはずですから。
トップアスリート達が、たとえどれほど苦しいトレーニングをしていたとしても、それは本人が決めた目標に向かっているので、他人からは到底できないような苦しいトレーニングであっても、実は充実した行動としてやっているのです。
実は、一般的な努力を放棄したとき、つまり楽をした方が人は苦しくなるということも起きます。苦しいトレーイング(=仮に努力)を、トップアスリートにしてはいけないと制限したら苦しくなります。
会社でバリバリ働き、定年退職をしたら解放されたら「楽」なはずなのに、得体の知れない苦しさが訪れる人もいます。
他人に押しつけられている目標は大変な上に、なくなっても大変という現象を生み出すのです。自分のやりたいことや自分のテンポではないからです。
ここまでをまとめます。
「目標」とするものを自分で決めると「楽しい努力」ができそうです。
言うのは簡単ですが、実際に取り組もうとすると、相当難しいということが分かってきますが、1つでも2つでもやってみることをお勧めします。
ちなみに、難しい理由は「社会の力」というややこしいものが干渉してくるからです。それは「期待」とか「協調」とか「賞賛」のような、一見疑う余地のないほど美徳化された言葉と態度によって目の前に表れ、自分の力ではどうしようもないくらい、自分の行動を規制してきます。
話が脱線しそうなので、話を戻します。
3 行動は同じに見えたとしても中身は違う。
ジョギングを例に考えてみましょう。
ジョギングを1時間したAさんとBさんがいたとして、
Aさんは、ジョギング自体が楽しくて、毎日走っています。
Bさんは、ダイエットが目的で、毎日走っています。
まずここで、目標が違いますね。
Aさんは、ジョギングそのものに目標があり、Bさんは、ダイエットというものが目標で、ジョギングはその手段の1つです。
次に、苦労はどうでしょうか。
Aさんは、ただ楽しんでいるので苦労は0です。
Bさんは、ダイエットすると自分で決めていて、それが喜びなら苦労は少ないでしょう。けれども、別にジョギングではなくてもかまわないので、ジョギングの効果が薄ければ、やがて幻滅するでしょう。それでもジョギングを続けるのなら、苦労メーターは一気に増していきます。
ここで、再びウィキペディアさんからの引用です。
“日本の英文学者・斉藤兆史は「日本人は長い間、勤勉に価値を見出してきた歴史がある。だが現代日本ではそうした美徳は失われようとしている。ひと口に努力と言っても、方向の間違った努力というのは空しい結果に終わることが多いので、結果として挫折感にさいなまれてしまう若者は多い。”
何を言っているのかというと、努力の方向性、つまり、目標そのものがどうなのかということを問われているのです。
4 努力を捨てる勇気
私は努力をしなくても良いと言っているのではありません。
愛読書である「はじめの一歩」の中でも、鴨川会長が一歩くんに
「努力した者がすべて成功するとは限らない。しかし、成功した人はみんな努力している」と言っていますし。
私が提案したいのは、努力しなくてもよい努力はしないという勇気です。
それを目標にすると、もうどうしようもなく苦しくなる上に、どうしようもないくらい悪影響があるような努力の放棄です(これも深く追求すると、難しいのですが、今回はとりあえず横に置いておきます)。
自分のなりたい自分が分かり、自分で目標を立て、心と身体をつかってつとめているのなら、必ず「楽しい」が発生します。たとえ瞬間的には苦しかったとしても、やっぱり「楽しい」が発生し、それは、楽しませてもらっている楽しさではなく、本当の楽しさです。(同じ言葉が続いてわけが分からなくなってきました・・・)
さらに、重要な言葉を見落としてはいけません。
「努力」とは、「心」と「身体」を使うのです。
「心」は見えにくい ・・・・というか見えません。
そのため、他者が見るのは「身体」だけです。
その他者は、その他者の世界観で見えるものを見ています。
だから、他者の言う「努力しているね」という評価は怪しいのです。
ただ苦しいだけの「努力」はしない勇気を持ち、自分が本当にしたいことの「努力」をしましょう・・・というのが、今回の提案でした。
プラモデル作りが上手になりたい人にお勧めです。
オセロが強くなりたい人にお勧めです。
※両方とも私の本棚にはありますので実証済みです。