Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

キレイ ニ ナリタイ 

綺麗になりたい

「もっと綺麗になりたい」と、大人になった元教え子が言いました。「ではなぜ綺麗になりたいの?」と聞くと、不思議そうな表情に。女性ならば綺麗になりたいと願うのは当たり前のことだからでしょう。

 今回の記事は、そんな当たり前について、対話の記録として書き残してみます。

 最後まで読んで頂けると、「なぜ綺麗になりたいのか」「綺麗になるにはどうすれば良いのか」「綺麗とは何なのか」について、理解できるかもしれません。

 ただ、ちょっと難しいので、若い人には理解できないかもしれません。ある程度の精神的な大人の人なら納得してもらえると思うのですが・・・ちょっと自信はないなぁ~。

 

 

綺麗になりたい

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「なぜ綺麗になりたいの?」

「えっ? 自分を好きになりたいから?」

「では、綺麗になったら自分を好きになれるの?」

「・・・・たぶん、なれると思います。」

「では、綺麗になったら、どうして自分を好きになれるの?」

「周りが自分を認めてくれるから。」

「綺麗になったらみんなが認めてくれるんだね?」

「・・・・たぶん、そうだと思います。綺麗な人はみんな性格もいいし。」

「なるほど、綺麗な人は性格もいいし、みんなが認めてくれるんだね?」

「そうです。」

「本当?」

「・・・たぶん」

「では聞くけど、芸能人の麻薬問題がつい最近話題になったね。あの芸能人は誰もが認める綺麗な人だよ。綺麗だということが周りに認められて性格も良いこととイコールで、それが自分を自分で好きになるということなら、薬に手を出すということはないのではないかな? 薬に手を出すというのは、苦しいから手をだすからね。なぜ苦しいかっていうと、自分で自分を好きになれないからだよ。」

「・・・そう・・・ですね。」

「だとすれば、綺麗になったからといって、自分を好きになれるとは限らないと言うことになるけど、いいかな?」

「でも、綺麗になったら友達も増えるし、優しくしてもらえる。」

「う~ん、友達っていうのが混ざっちゃってるけど、とりあえずまあいいや。世間一般の視点で言うと、君は十分綺麗だけれども、そうは思えない?」

「それ、言われたら腹立ちます。だって、私は自分ではそう思っていないから」

「綺麗かどうかは、君が決めるのではないのだよ。世間が決めるのだよ」

「そうなんですか?」

「容姿のことだからね。他人が見て、あの人は綺麗だって言ってくれるんでしょ?」

「でも、外見が良ければ、内面も良くなると思うんです。」

「うーん、さらに混ざってきたな~。君が言っている綺麗は、外見のことなのか、内面の事なのか、どっちなの?」

「・・・・両方だと思います。」

「だとすれば、別々に考えた方が良いだろうね。」

 

 このような対話を約2時間続けました。テーマが次から次へと代わり、混ざり、混迷を極めていきます。この対話で私が得た教訓は、「綺麗になりたい」という若者に、「綺麗」とは何なのかを理解してもらうのは大変難しいということです。

 記事を分かりやすくするために、冒頭部分だけ対話形式で書いてみましたが、これ以上は途方もない作業になりそうなので、雰囲気を掴んでもらえたということにして話を進めることにします。

 

「綺麗」とは何か

見た目の綺麗さ

※ここからは私が元教え子に言ったことを思い出し、整理しながら書きます。私が言うことが全てではなく、1つの側面であるということを念頭に置きながら読んでください。そして、納得される方もいるでしょうし、納得出来ない方もいると思います。それでいいのだと思います。どうしても自分の頭で考えなくては理解できませんから。

 

 

 綺麗というのはね、外見の事を言うのだよ。人からどう見られているのかということ。同じような言葉に「かわいい」とか「美人」というのもあるが、とりあえず「綺麗」という言葉で考えてみよう。

 人から綺麗と言われれば嬉しいでしょう。でもそれはやっぱり、自分を自分で好きなれるということにはならない。例えば君が綺麗になったとしよう。もう既に綺麗ではあるけれども、私の言うことが信用できないのなら仕方ない。君の理想とする綺麗さを手に入れたとしよう。すると、君の言う通りならば友達がたくさん集まってくるのだね。その友達は君の綺麗さに寄ってきているということだ。

 では、その綺麗さを失ったとしたら、その友達は居なくなってしまうということにはならないかな? そしてそれが友達なのかな?

 君は自分を好きになるために綺麗になりたいと言っているが、「友達にチヤホヤされたいから綺麗になりたい」と言っているのだよ。でも、綺麗さによって友達がたくさん集まってきたのなら、君は綺麗であり続けなくてはならないし、他に自分よりもきれいな人が現れたら大変なことになるよ。

 そうやって、自分がどう見られるかばかりを気にして生きていくということはだ、周りの評価に左右されながら生きていくってことだよ。それがどうして「自分を好きになる」ということになるのかな? 周りが好きになってくれるから自分で好きになれるのなら、どうしようもなく他力本願で、自分で自分を好きになるということを他者にお願いしているということで、本当の意味で自分で自分を好きになれるということは不可能だ。

 君は愛されたいのだよ。綺麗になって愛されたい。つまりは結局、そういうことを言っている。でもその愛がどうしようもなく条件付きの愛だとは思わないかい?綺麗なら愛されるし、綺麗じゃないなら愛されないと、君は自分で言っているのだよ。

 

「綺麗」とか「かわいい」とか「美人」とか、そういう自分になりたいと思うのは当然のことだから、私は否定するつもりは全くない。ただ、自分を好きになるために綺麗になるのが唯一の目的であると君がしているので、それはイコールではないということを言っているのだよ。あくまで1つの方法に過ぎないということで、それが全てではないということだ。

 もし君が「友達がほしい」ならば、必要なのは「笑顔」や「自己開示」なのだろうし、もし君が「愛されたい」ならば、必要なのは「自分を愛すること」なんだよ。その愛するというのは、無条件であることが望ましい。

 君自身が自分に条件をつけた愛を見いだしているのだから、それは即ち、君自身も他人を見た目の条件で判断する人間になるということを言っているだ。

 

 その綺麗を、本当に良いと君が思っているのならば、私はそれを止めない。自分で考えて、自分で経験するまでは分からないからね。

 

 

内面の綺麗さ

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 君は内面も外面も綺麗になりたいのだと言ったね。少し分けて考えてみよう。

 内面の綺麗さを「美しい」と表現すると分かりやすいだろう。「美しい花」「美しい山」「美しい人」と言ったとき、それは外見だけを言っているのだろうか?「美人」と「美しい人」はどう違うのだろうか?

 そう考えたとき「美しい」という方が崇高な感じがするのではないかな?

 もし、そう感じられるのなら、「美しい」という言葉は「内面」をも含めているということに気がつくはずだ。極端な話をすればだ、外見は醜くとも「美しい人」はいるのだよ。ただし、外見にばかりとらわれている人には、その人の美しさを見いだすことはできないよ。自分が美しくある人が、他人の美しさに気づけるのだよ。

 

「内面」に大きく影響している「美しさ」は「外見」にも影響するが、その逆は起こりにくい。外見が綺麗だと、その綺麗さを失う怖さやもっともっとという欲が出てくるからね。内面に関わる「美しさ」というのは失われないから、君が求めている「自分を好きになりたい」ということに直結している。君の願いが「自分を好きになりたい」ということならば、どうすれば綺麗になれるかではなく、どうすれば美しくあれるかを求めるのが正解だ。これはつまり、君がもし「ちやほやされたい」のならば、綺麗になるでOKということも言っているのだよ。

 さあ、君はどちらを選ぶのかな?

 

 もう一つ付け加えておこう。本当に美しい人は、自分が美しいとは感じられないのだよ。これを理解するには「美しい」とは何なのかをもう少し説明しないといけないね。

 美しいとは、自然体であるということだ。一輪の花が美しいのは、その花がその花として凛として在るからだ。花束は綺麗だ。綺麗というのはどうしても作られた一面があり、着飾った一面と言ってもいいかもしれない。

 それに対して「美しさ」は、その人や物がもつ自然体なんだ。多くの人が「綺麗」と「美しい」を混同して使ってはいるが、突き詰めて考えてみると、君自身にも経験があるはずだ。「綺麗な花だね」と言ったときと、「美しい花だね」と言ったときの自分の心の動きを感じてごらん。きっと違うはずだ。「美しい花」と言った時、見た目以上の何かも含めて「美しい」と言っているとは思わないかい? その何かは目に見えないもの。その花が花であることを誇りに思っているような、そんな表現が分かりやすいかもしれない。内面に持つ力強さと言ってもいいかな。

 

 では、花束と一輪の花に吹き出しをつけてごらん。きっと花束は「私って綺麗でしょ?」と言っているはずだ。一輪の花は?

 

 きっと、一輪の花は自分が綺麗かどうかを気にしていない。ただ咲きたいから咲いている。それが自然だからだ。ただ咲いているだけなのだから、もう咲いているのだから、咲いていないということはなく、咲いているかどうかなんて問題にならない。つまり、自分が咲いているかどうかなんて、考える必要もないということだ。

 

 分けが分からなくなってきたね。人で考えてみよう。

 人が健康でありたいと願うとき、その人は不健康だ。怪我や病気になったとき、人は健康のありがたさを感じ、健康でありたいと願うのは理解できるね。君は今、五体満足で食べるものにも困っていない。だから自分が健康体であるということを普段は意識していないはずだ。君は毎日、数え切れないほど呼吸をしている。空気がほしいなんて思わないし、そこに空気があるなんてことを考えているわけでもないだろう。でももし、空気がなくなったら、あっという間に空気がないことを感じられるはずだ。

 

 つまり、「美しい」人は、もうすでに「美しい」のだから、自分が美しいかどうかなんて問題にならないくらい凛としているのだよ。誰が何と言おうが、自分は美しいのだから、もう考える必要がなくなるのだよ。

 では「綺麗な人」はどうだろうか。綺麗とは、世間や他人が決めている外見であることはさっき言ったね。だから、自分で決めることはできない。ということは、他人の判断はちょくちょく変わるからね、いつも気にしなくちゃいけない上に、相対的な判断である上に、ひどく曖昧で壊れやすいということだ。

 

どうすれば美しくあれるか

美しい

 君が「見た目も内面も両方綺麗になりたい」と願い、それが「自分を好きになること」に繋がると判断するなら、内面の美しさについて考えていく必要があるし、内面を伴った綺麗さは、本物の綺麗さになる。

 えっ、どうすれば内面を磨けるかって?

 まずは「自分は内面を磨くぞ」って自分で決めることだ。

 えっ、決めた後はどうするのかって?

 その方法については、いくつもあるから、これをやったらいいなんて、一言では言えない。例えば10人が山に登りたいと決めたとしよう。その場合、その10人はどうするだろうね?

 うんうん、山に行く? それから? うんうん、誰かに連れて行ってもらうって? それから? うんうん、えっ、それぐらいしか思いつかないって?

 

 君は自分の限界を知ったね。今の君ではその程度しか思いつかないくらいの知識しかないということだ。山に登ろうとしたら、山について調べる人もいるし、山登りグッズのショップに行く人もいるし、なぜ山登りがしたいのかと考える人もいるし、山登りについて勉強する人もいる。その方法については様々であるけれども、どれも「山に登る」ということを決めないと起こらないということは理解できるね。どの方法が正しいなんていうことも出来ないとも理解できるはずだ。

 

 しかし、そのどれにも言えることが1つだけある。それは「知る」ということだ。とりあえず山に行くと選ぶ人は、実際に登る経験を通して「知る」ということをしているし、山について調べるという人は、知識として「知る」ということをしている。そのどちらが先かなんて言うことはできない。どちらでもかまわないし、とちらが正解ということもない。先に経験をするのか、準備をしてから経験をするのかというだけで、つまりは結局、いずれにせよ経験するということだけだ。そして経験して自分で考える。この繰り返しの作業になる。

 

 だから、その方法については自分で見つけていくしかないのだけれども、とっかかりとして簡単なのは、本を読むことだろうね。内面を磨くというのは、心を磨くということであって、それは見えない世界について理解しなくては話にならない。

 えっ、どんな本を読めばいいのかって?

 せめてそれは自分で探して。「内面を磨いて本当に綺麗な自分になるぞ!」って決めたのなら、見つけられるから大丈夫だ。

 

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