Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

幸せって何?

幸せ

 幸せになりたいと、誰もが願っています。ところが、幸せとは何かということを追求していったとき、たどり着く場所が「自分が幸せだと思ったら幸せ」ということや「すでに幸せであるという知足」になってしまいます。つまり、幸せかどうかは自分が決めるという1つの真理を言っているのでしょうけれども、本当にそれだけで十分かな?と思うところもあるのです。

 

 自分が幸せだと思えば「幸せ」で、もちろん良いのでしょうけれども、それだけでは「幸せの中身」については語っていないのではないでしょうか。今回の記事は、「幸せって何?」という質問を受けたわけではありませんが、多くの人達が考えることでしょうから、より深く追求してみます。
 記事を読み終えたら、ほんの少しかもしれませんが、幸せの中身について納得できるかもしれません。

 

幸せって何?

幸せチケット

すでにあなたは十分に幸せです。
すでのあるものに、ただ感謝し、足るを知ることです。
さすれば、あなたはあなた自身が幸せだと気付くでしょう。
富があっても、地位があっても、名誉があっても、
それらは「幸せ」とは本当は関係がありません。
幸せは努力によってえられるものではなく、どう感じるかという問題なのです。

と、幸せを追求している多くの書籍は言っています。

 

 しかしこれは、幸せな「状態」について述べているのであって、「何か」という中身については答えていません。あえて、その中身を一般的に言うなら

「衣・食・住がおおむね自分にとって最低限度の状態でいられること」

になるのでしょうか。この状態を感謝することが「知足」であり、多くの人はこれで幸せになれるということになります。

 

 でも、やはり中身については不十分です。衣・食・住の観点だけで幸せなら、それはそれで良いのでしょうけれども、そうだとすれば文明の進化も起こらなくなってしまうという違う側面も出てきてしまいますから。

 

 また、例えばもし、自分の身近な人が大きな病気で苦しんでいるのを知っているのなら、自分は幸せだと言い切れるでしょうか。例えばもし、欲望をすべて捨てることができたら幸せになれるのなら、なんのために生きているかという問題が出てきませんか?

 

 つまり、自分の心次第であるということは、幸せになるための1つの側面ではありますが、それだけでは不十分だということを言いたいのです。

 

 整理します。
「幸せとは何か」という問いに対する答えは、「幸せの状態」なのか「幸せの中身」なのかということを分けて考えた方が良さそうです。

 

幸せの中身は何?

 では、幸せの中身について考えていきます。

 

 その前に「幸せ」という言葉は、それを聞いた人が嬉しくなるということを思い出しましょう。「一緒にいられて、私は幸せです。」「大丈夫、きっと幸せになれるから。」というように、それを聞いた人が嬉しくなり、励まされ、元気になってしまう言葉なのです。

 

 そういう言葉の代表に「ありがとう」という感謝の言葉や、「大丈夫だよ」という安心の言葉、「素晴らしい」という賞賛の言葉がありますが、その最高峰が「私は幸せ」かもしれません。

 

 具体的な中身が伴っている場面を想起してみます。

 

・家族で楽しい時間を過ごすことができるなら、それは幸せです。
・子供なら、友だちがいて、ケンカできて、仲直りできるなら、それは幸せです。
・老人なら、慕われたり、面倒を見てくれる人がいるのなら、それは幸せです。
・恋人なら、相手に愛されているなら幸せです。

 

 このように、具体的な中身について考えてみると、どうやら「人間同士のふれあい」ということに関係ありそうだということになります。これは、先ほど述べたように、「幸せ」という言葉が、直接的に私たちの心というものを元気にしてくれる経験と一致しています。

 

 すると、私なりの結論は次のようになります。
 幸せの中身に着目した「幸せとは何か」という解答は
「人間同士が触れあうことによって起こる大いなる喜びである。」かな?

 

 ですから例えばですが、全ての物がそろっていて、全ての物はなくならず、死ぬまで安心できる状態の惑星があったとして、そこで一生1人で暮らしていたとしたら、やっぱり幸せとは思えないでしょう。人は人と触れあうということを通さない限りは「幸せ」を感じられないのです。つまり、幸せの中身は「人間同士のふれあい」でよろしいかと考えるわけです。

 

幸せは人間同士の触れ合いだと証明するコロナ現象

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 テレワーク、自宅待機、自粛、じしゅく、ジシュク・・・。
 オンライン飲み会という言葉を、先日初めて知りました。
 直接会えなくても、画面を通じてでも、一緒に飲むという状態を作りたいということです。

 

 世の中のネットワーク化は、今回のコロナ騒動で一気に加速しています。
 人々の、どんな状況であってもつながっていたいという願いがある証拠です。
 SNSだって、ツイッターだって、究極的には「つながっていたい」からです。

 

 これは一見良さそうに見えますが、私の主張は、「リアルなつながりにはかないっこない」です。残念ながら世の中は一気に無人化や自動化、そしてオンライン化に寄っているように見えます。そして、この流れは加速していくでしょう。

 

 無人化、自動化、オンライン化しても良いこともあるでしょうし、その方が便利だということもあるでしょうし、その方が高度に進歩するといこともあることは承知しています。
 
 だからこそ、危機感というものをどこかでもっていなければ「幸せ」にはなれないという主張です。情報のやりとりは便利ですが、人と人との直接的なぬくもりの大切さを見失わないようにしてほしいと願っています。

 

 赤ちゃんはね、ロボットがいくら進化したって、お母さんにだっこされたいのです。もう、どうすることもできない、変えることはできない、幸せへ向かうための真実です。