「真・善・美」という言葉がある。人の生き方としての究極的な価値を、3つの側面で考えて捉えている言葉であるが、その中の「美」について考えてみたい。
「美しい」という言葉。「真・善・美」の中で言うところの「美」は、審美上の美ということであるらしく、審議上の美とは「本当の美しさを的確に見極めること」なのだという。では、本当の美しさとは何なのか…。
美しくなりたいと願う人には、この記事は少しだけ参考になると思う。
美しい形
美しいのは形なのか精神面なのか、またはその両方なのだろうか。
おそらく、その両方であり、相関しており、共鳴していて、どちらかが欠けていたとしても不十分なのだろう。
しかし、一般的には、または多くの人たちにとっては、『人は見た目が九割』という本があるくらいに確かに、形そのものに左右されてしまうのも現実である。
人は美しさを求めておしゃれをし、体形を気にしてしまう。物であれば、創造するにも美しさを求めてしまう。精神面などお構いなしに、そう求めてしまうのだから、内面と外面の相互関係における美しさを「形」という外面のみに着目して考察してみる。それだけで、面白いことに気づく。
人々が「美しい」と感じる形については、時代によって変わるという意見がある一方、昔から一貫して美しいとされているものも存在しているということである。それは人間の肉体美から、物質の美しさ、花の美しさ、自然の美しさなど、多種多様にわたる。
ただ、その美の形を語るときに、本質に気づける人であれば、やはり内面がどうしても絡んできてしまう。そこをあえて、形のみに注目して考えてみるのは、多くの人たちにとっての美の形は何かを考えることで、多くの人たちが求めている価値について探ることにつながるからである。
さて、この「美しい形」について、私ははっきりとした回答を用意している。
それはシンプルであるということ。無駄がないということ。
人であっても物であっても同様である。
加えて曲線美。直線美というのもあるが曲線の美しさにはかなわない。
曲線は柔らかく、力強いのである。
ただし、次に述べることを加えなくてはならない。
「曲線は美しい」という解答を支える土台には、無駄がないという条件が必要であるということ。これはつまり、太っちょが多くの曲線を描いているから美しいというよりも先に、無駄が多すぎるということを意味しており、美しい前に美しくないのである。
肉体美に関して言えば、太すぎても細すぎても美しさを損ねてしまう。それは誰に教えてもらったことでもなく、本能的に感じるものである。たまに太っちょが専門で美しいと感じる人はいるだろうが、何らかの違った感情や価値観が混ざっているのではないだろうか。または、それを美しいと感じることにはなんら問題はないが、ここでは、多くの人たちが感じる美しい形について書いているので、除外しておきたい。
最後に、美しい形の条件として、すべてを包み込む大前提がある。
それが「自然なる形」。
人間ならば、人間の肉体の持つ自然な形、無駄のない形。ギリシャ彫刻のような形。
ギリシャ彫刻は、ほとんど服を着ていないのも特徴であるからして、服さえも無駄なものとして感じているのではないだろうか。
美しい形、外面についてのみを特化して考察してみたが、本来は内面も含めて美しさはあるのであろう。いや、内面にこそ美しさがあるというのが正解だろう。