Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

過去の思い出の存在意義

過去

 なぜ、人は思い出を欲しがるのでしょうか。なぜ、素敵だった記憶を思い出したくなるのでしょうか。その理由が分かったので記事にします。

 

過去とは何か

 時間は、過去、現在、未来の三位一体の関係です。三位一体とは、3つで1つ、分かれているようで分かれていない、そういうものだと簡単に理解してください。そして、究極的には現在しかなく、未来は現在の結果として現在として経験していきます。

 ややこしいですね。

 もう少し分かりやすく説明すると、明日という未来は、明日になれば今になるということで、人は常に今しか経験することはできないということです。そして、今の連続が結果として未来にはなるのだけれども、その未来の場所にいけば、そこは今でしかないということです。

 

 では、今現在とは何かということになります。

 ごくごく簡単に説明すると、それは過去と未来を繋いでいる場所となります。

 先ほど未来はそこに到達すれば今になると言いましたが「結果として現れる今」が未来であるということです。これは因果の法則から見ても、未来を創っているのが今であり、同時に過去を作り出しているのも今であるということでもあります。

 

 では、過去とは何かということについて考えてみます。これを理解することが、思い出を欲しがる理由に繋がります。

 再び三位一体のお話に戻りますが、人も三位一体の存在であるということから説明します。この三位一体という関係は、様々なところに存在し、その都度、言葉での表現方法も変わりますので、ここで断言できるようなものでもないのですが、分かりやすくするために、とりあえず「思考・言葉・行動」という限定された三位一体で考えてみます。

 

 あることを考え、思考することが始まりです。

 その一部が言葉として放出されます。言葉は思考よりも強力なエネルギーです。

 言葉のエネルギーは強力ですから、その一部が現実となっていきます。

 それが行動に繋がります。行動は言葉よりもさらに強力なエネルギーです。

 

 その結果、思考→言葉→行動という三位一体が、今であるということです。

 ところが、今という時間はどんどん過ぎ去っていきます。

 これが過去です。つまり、過去とは、三位一体としての自分の経験の総和であるということです。

 この過去が素敵だったら、もう一度思い出したいと願います。

 なぜ思い出したいのかと言うと、過去を振り返るということは、その時の自分の総和であるのだから、そして過去の自分が今の自分を支えているのだから、つまりは結局、自分とは何なのか知りたいという本質的な欲求に支えられているということです。

 この本質的な欲求は、再び三位一体でいうところの、「意識、無意識、深層意識」とした場合(言葉としては多様な表現がある)、最も深い部分なので、通常は意識化できないようになっています。

 

 

過去という思い出を保管する

 過去が自分のこれまでの総和であるのだから、素敵ならば思い出したい、思い出すということは、その過去と共に生きるということの選択であり、自分のこれからを作るための礎にもなります。

 そして、人々から思考が生まれます。

「思い出を取っておきたい」という言葉が生まれ、文字、写真、動画という現実・行動を生み出してきました。

 ここでもやはり、思考→言葉→行動という三位一体が発動しています。

 

 人は忘れる生きものでもあります。厳密には忘れてはいないのですが、表面上は忘れちゃっています。ただ、少しのきっかけが在れば思い出すことが可能です。だから、そのきっかけとしての道具を創造したのです。思い出したい過去を思い出しやすくするために生み出された道具の1つが写真でしょう。

 

 ただ、過去というのは、ひどく曖昧で、ご都合主義の側面があります。

 過去を想起するとき、それはあくまで、その当人が自分で描きたいように思い出すしかなく、それ以外は難しいのが現実です。だからこそ、一般的には素敵な思い出として自分が認識したことを思い出すためにシャッターを切るのでしょう(昔風の言い方ですね。今はボタンを押すかな?)。

 

 曽野綾子さんの『中年以後』という本の中で、「中年以後、ある年齢になると、人は自分史という物を書き残したくなる」という内容が書かれていました。それも、おそらく「過去」というものを整理しておきたいという欲求であり、根本は過去の整理によっって、自分は一体何だったのかを知りたいという願いに繋がっているのだと思います。

 

 

過去は変わる

 よく、過去は変えられないと言います。それはそうなのでしょうけれども、事実としての過去は変えられないということであって、それをどのように考え、どのように感じるのかというのは変えられます。

 あのときの苦しみがあったから、今の自分があるのだというような話はよくあることです。その苦しみを感じていたその時は、苦しさしかなく、それが自分を成長させているなんて、全く思うことも考える事もできないのですが、時間の経過と共に、「ああ、あのときの苦しみが自分を成長させたのだな」と思えたりもします。

 もし、そのように思えたのなら、嫌な思い出ですら思い出したくなる日が来るでしょう。三位一体としての自分の総和であるのですから。

 そして、もしそのように思えたのなら、自然な感情として「感謝」が芽生えることでしょう。

 

 人は、素敵な記憶を思い出したい、もう一度振り返りたいと願うものです。

 それは今を支えるものであるからです。今は未来を創り出すものであり、できれば力強く創っていきたいと願います。そのためには、力を与えてくれる過去の自分が必要だから、思い出が欲しいのでしょう。楽しかった自分、嬉しかった自分、みんなに喜んでもらえた自分、自分で自分が素敵だったと思える自分。

 過ぎ去りし過去は、三位一体としての自分の総和です。

 

 言葉というのは、思考のごく一部しか表出できないし、文章を書く能力というのも関係しますから、私の書いた記事が全てであるというつもりは全くありませんし、全てお伝えできているなんて、そんな傲慢な考えもありません。

 

 久しぶりにブログの記事を書いたので、自分でも「うまくまとまらないな~」なんて思っていたりします。そんなあやふやな記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。少しでも、皆さんのお役に立てれば嬉しいです。