「あの人に会いたい」と思われる人になるためのハウ・ツーというものが存在します。そのハウ・ツーを追求していけば、それは「一緒に居て楽しい人になる」とか「一緒にいると安心できる人になる」とか、言葉はなんでもかまいませんが、つまるところ「魅力的な人になる」ということでしょう。人によっては「自慢できる」が目的になりうる場合もありますから、さまざまな能力を高めるということもハウ・ツーには書かれているかもしれません。今回のお話は、ハウ・ツーではない「会いたい」と慕われる人について書いてみます。
※ハウ・ツー(How to)を否定しているわけではありません。
「会いたい」と思われるための術
恋愛関連や、仕事上の人間関係などの話にはよく、相手に良く思われるための努力や方法についての処世術が書かれた書籍があります。全くその通りだと思うようなことが書かれているわけですから、全く否定しません。それらは必要で必然で当然ですから。
例えば外見について。
・清潔であること。
・TPO(時・場所・場合)をわきまえること。
・いつも明るく笑顔を絶やさないこと。 ・・・等々。
例えば人間関係について。
・相手を否定しないこと。相手を思いやること。
・話し上手よりも聞き上手であること。
・相手に感謝を伝えること。 ・・・等々。
例えば自分自身の能力について。
・知識見聞を深めること。読書をしまくること。
・仕事ができるようになること。
・努力を惜しまず、何事にも挑戦すること。 ・・・等々。
ごく簡単に羅列してみましたが、各項目のそれぞれについても深く追求していけば、様々な要素が加わってきますから、上記のたった9つだけでもやろうとすれば、大変難しいということが分かるはずです。
難しいということは、そのようにできる人が少ないということで、当然ですが希少価値が出てきます。その希少価値が魅力に思える人もいますから、「希少価値」=「魅力」の側面もあるということです。
また、上記の9つ(別に違う項目を立ててもかまいません)の一つ一つが魅力的にもなります。「話を聴ける」=「魅力」「知識が豊富」=「魅力」「熱心」=「魅力」という具合にです。その「魅力」をいくつ持っているかというのが総合点みたいなものになっているのかもしれません。あるいは、その「魅力」というのは、受け取り側が決めるので、受け取り側がひっかかる魅力をいくつもっているのかということになるのかもしれません。
ある人は「優しさ」みたいなものが「魅力的」だと感じるならば、それを持っている人に惹かれる。「優しくて頼りがいがある人」が「魅力的」と感じる人ならば、「優しい」だけでは魅力的ではなくなります。
例えば「どんな人がタイプなの?」という会話があったとして、そこで示しているのは「どんな人が魅力的だと感じるの?」と聞いているのであって、「好きなタイプ」という時の「タイプ」は、言葉としてはおおいに使われていますが、タイプというものは存在しない。「自分は何に魅力を感じるか」ということを言っているだけです。
さて、話が「魅力的」ということに偏ってしまいましたが、テーマは「会いたいと思われる人」です。「魅力的」ならば「会いたい」と思われるのかということを考える必要があって「魅力」の定義について書いてみました。「魅力」は受け取り側にゆだねられているという側面、「魅力」は様々であるという点、「魅力」とは総合的なものという理解です。
すると「魅力的」ならば「会いたい」と思われるという側面はあるでしょうけれども、その2つは必ずしも一致しないということが感覚としてわかるはずです。
例えば「清潔さ」なんていうのは、社会的には絶賛されるでしょうけれども、「清潔だから会いたい」とはならない。他も同様に「いつも笑顔だから会いたい」ともならない。「知識が豊富だと自分の無知がばれちゃうから話をしたくない」などなど、いずれも「会いたい」という要素には、なりそうでなっていないということが分かります。
しかし、それでも、上記のハウ・ツーは入り口として必要でしょう。
その理由を説明します。
ハウ・ツーは入り口にすぎない
ハウ・ツーとは、マニュアルと言い換えてもかまいません。定跡とも言えるし、セオリーとも言います。日本語的になら、基礎・基本とも言えます(基礎と基本は本質的に違う内容ですが、そのことはいずれ別の記事に書きます)。
それらは必要です。社会生活を営んでいくときの社会ルール、暗黙のマナーのようなものは身につけておかなくては、様々なトラブルにもなりかねませんから。
しかし、入り口にすぎないのです。
例えば、コンビニエンスストアで買い物をしたとき、マニュアル通りに受け答えする店員さんと、マニュアルは多少崩れているのでしょうけれども人間的な対応をする店員さんは、どちらが心地良いと感じるかを想起すれば分かります。
昔、ある回転寿司のチェーン店に行きましたら、受け付けロボットちゃんが、機械音で正確にマニュアル通り案内してくれましたが、あまり居心地がよくありませんでした。マニュアル通りが良いのなら、それはロボットで満足できるということを言っているのですが、満足することは難しいでしょう。
将棋の世界では、「定跡は覚えて忘れろ」とも言います。
脱マニュアル、脱ハウ・ツーということを言っているわけですから、ハウ・ツーは入り口として存在しているということになります。
さて、ハウ・ツーの話になってきましたが、テーマは「会いたいと思われる人」です。ハウ・ツーの必要性とその限界についての理解が必要なので、ここまで書いてみました。まだ続きます。
必要不可欠なハウ・ツーですが、それを「やらされている」のか「やっているのか」ということの違い、あるいは「自主的かどうか」の違いがあります。つまり動機の違いです。
例えば「清潔さ」。自分が良く思われたいから清潔にするでも良いのですが、さらに進んで「相手が心地よく感じられるように清潔にする」だと、もっと喜ばれます。
例えば「聴き上手」。自分が相手に受け入れられるために聴いているのでもかまいませんが、さらに進んで「相手のことをもっと知りたい」とか「相手のことを理解したい」とか、相手のことを思う動機ならば、人は話したくなるでしょう。
例えば「知識」。自分が知識人であることをアピールしても、それを魅力的だと感じる人にとっては良いのでしょうけれども、さらに進んで「自分の知っていることを分かち合いたい」とか「自分の知識を社会の役に立てていきたい」と望んでいる人になればもっと喜ばれるでしょう。
動機の違いとは、突き詰めて根幹部まで行くと「不安」なのか「愛」なのかということに尽きるのですが、簡単に言うならば「心がこもっているかどうか」ということになります(本当は心も少し違うのですが、分かりやすいので)。
ハウ・ツーは入り口としては必要であり、将来的にはなくすものです。
動機は「不安」でもかまいません。やっているのなら、それだけで十分価値があります。そして、動機が「愛」になったら自分の魅力に磨きがかかり、みんなに喜ばれるということです。
「会いたい」と思われる人
「会いたいと思われる人」になるのも難しいのですが、今回の記事で私が言いたいのは「会いたいと慕われる人」です。
ここまでの内容は、「会いたいと思われる人」についてですから、それだけでも大変難しい事が分かります。さらにその上位概念かな?になる「慕われる」という人。そんな人は稀な存在ですが、誰にでも経験があるはずです。
まずは「会いたいと思われる人」について。
人の持つ魅力は1つということは決してなく様々な側面があり、どうしても受け取り側に左右されます。ですから、あえて解体して1つにフォーカスして説明する必要があることを理解された上で、イメージしてみてください。
「一緒にいて楽しい人」は会いたいと思われます。会話が上手で楽しいし、自分の事をかまってくれるみたいな感じでイメージしたとします。その人は、相手を楽しませたいという動機を持っているとします。「もう完璧だ!」と仮に設定します。
しかし、ずっと楽しませてくれるということは至難の業です。先ほども述べましたが、人は全員多面的です。1つの側面だけで生きているわけではありません。ですから楽しくない時だってあるわけです。
もし「一緒にいて楽しい人」だから会いたいのなら、楽しくなくなれば「会いたい」とは思われなくなってしまいます。
もっとわかりやすい例では「お金」があります。全ての人がそうではないのでしょうけれども、逸話にはお金に集まる人々と、お金がなくなったらいなくなる人々、そして、それでも最後に残ったのが本当の友人だというような話がいくつかあります。
そのお金をどのように使ったとしても、たとえ「愛」という動機から使ったとしても、受け取り側の問題があるので、どうしても「お金」という条件がなくなれば、「会いたい」と思われなくなるということにも繋がってしまいます。
だから、「会いたいと思われる人」というのは、どうしても条件が発生するということなのです。時と場合、その人の状態、自分の状態、社会の様子などなど、あらゆるものが複合的に絡み合い、そして条件を作り出してしまうのです。
「会いたい」と慕われる人
「会いたいと思われるような人にナリタイ」と考えているうちは、「会いたいと慕われる人」にはなれません。どうしても条件が発生してしまうという単純な理由から、条件に左右されるためです。
お盆や正月に、両親のところへ帰省するのはなぜでしょうか。
(そういうものだからと言う人もいるでしょうし、本当は会いたくないなんていう人もいるでしょうから、両親が会いたいと慕っている人というわけではなく、1つの事例としてです。この次の事例も同じように捉えてください。もしかしたら、どこかには自分の経験と重なる部分があるかもしれませんから。)
例えば職場で「この人がいると、それだけで安心感がある」という経験はないでしょうか。例えば友人で「いつもは会っていないけれども、定期的に会いたくなる」という人はいないでしょうか。例えば、たまたま近くを通ったから寄ったという知人の経験はないでしょうか。
それらには条件がありません。友人だから、親だから、知人だからというのが理由にはなるかもしれませんが、それは関係性を言っているのであって条件ではありません。
「会いたいと慕われる人」というのは、同じ空間に居たいと感じられる人で、その人そのものの存在がそう感じさせるのです。その人は、すべての条件を落としているので、一緒に居る人にも何一つ条件をつけることはしません。ありのままの自分であるので、ありのままの他人を認めています。だから、会話も本当は必要なく、ただ同じ空間にいたいと思われる、つまりは「慕われる」という現象が起こります。
「よく分からないのだけれども、この人といると本当の自分で居られる」という経験や、「あの人の側にいると、なんだか心が落ち着くのよね~」という経験は、そのように感じるということを言っているのであり、もう理屈ではないのです。
※理屈ではないことを理屈で説明するしかありませんが・・・。
とても長い道のりになりますが、簡単にまとめると次のようになります。
①ハウ・ツーを入り口にする。
②実践を重ねていく。
③動機を変えていき、心を込められるようにする。
④思いやりの状態になる。→ここまでくると「会いたい」と痛烈に思われます。
⑤それら全てを捨てます。→慕われます。
ただし、5番目までくると「会いたいと思われたい」などとは微塵も考えていません。その状態になったのなら、考える事も想うこともすでに不可能です。
慕われる人というのは、その人そのものの存在でしかありません。
もし、あなたの周りにそのような人がいるのなら、長い時間を共に過ごせるチャンスがあるのなら、可能な限り一緒にいることをオススメします。
手ぶらでは行きにくい時は、お土産にカルピスがいいかな?
自分が子どもの頃、これを持って来てくれた大人は、みんな素敵に見えました。