「怒り」とは、感情の中の1つです。「怒り」が高じると「憤怒」という状態へと推移していきますが、かわいらしく言うと「イライラしている」ということです。このイライラしている自分というものがある人は大変苦しいわけです。言葉には限界がありますから、うまく説明できる自信はありませんが、少しでもお役に立てるかもしれないので、なるべく分かりやすく書きます。
「怒り」という感情の理解
まず最初に理解しておきたいのは、「怒り」はそもそも在るということです。どこにあるのかというと、自分の感情であるという単純な理由から、自分の中にあるのです。「自分の中にしかない」というのが真理です。
ところが多くの人は、その「怒り」の原因を外側に見つけます。「あの人の態度が許せない」「あの人の行いが許せない」「あの人の存在が許せない」等々、いとも簡単に見つけます。対象人物がいない場合は、「社会が悪い」「日本の政治が悪い」「世の中が悪い」等々、怒りの対象をさらなる外側に見つけ出そうとします。
それで、怒りの対象を見つけ、怒りの口実を見つけ、出せた人は一時的にではありますが怒りの感情はなくなります。そのことがかえって「あの人が悪いから私は怒ったのだ」という理由をさらに正当化させてしまい、繰り返すわけです。一時的に出せた怒りではあっても、また溜まっていきますから・・・。コップに溜まった「怒り」という感情が溢れ出た後は、コップにゆとりができるという例えなら分かりやすいかもしれません。
次に理解しておきたいのは、「怒り」そのものは2元的であるということです。2元的とは、2つの側面があるということです。それは動機に関わる2元性です。「怒りの動機」というと、やっぱり「怒りの原因」と結びつけたくはなるでしょうけれども、そうではありません。私が言っている動機とは、そもそもその怒りは「不安」から出ているのか、「愛」から出ているのかということです。
例えば、素行の悪い(素行が悪いというのは、社会的に悪いということではなく、自分自身をないがしろにしているという意味)子どもを、親が心から子どもの事だけを想って怒る場合、それは「愛」です。
例えば、誰かを傷つけている人を守る為に怒る場合、それも「愛」です。
だから、本気でぶつかって怒られた子というのは、その向き合ってもらったという愛を感じて嬉しくなるという現象も当然起こるわけです。
最後に理解しておきたいのは、「怒り」は必要だから存在しているということです。世の中に不必要なものは存在しないという理解にも繋がりますが、「怒り」という感情そのものは必要なのです。「喜怒哀楽」という言葉が示しているように、全ての感情は必要だから存在しているのです。もしもネガティブな感情だからダメなんだという理由からネガティブと認識しているであろう「努」と「哀」を無くしてしまったら、「喜楽」になってしまいます。それはおめでたいでしょうけれども、人間味が喪失してしまいます。
本当はまだまだあるのですが、とりあえず、以上の3点を理解してもらって、話を進めます。
1 「怒り」は自分の中に在る。
2 「怒り」は動機によって違う。
3 「怒り」は必要。
ここまで読んでいただいて、全く理解できない場合は、これ以上読むことはオススメしません。分かる人には分かるはずなので、そういう人だけが読み進めてください。
怒りの口実をなくすと・・・
「怒り」は自分の中にしかないと、先ほど述べました。そして溜まっていくとも。溜まる理由はとても単純で、溜めるから溜まるのです。これを物質で例えると、お金は貯めるから貯まるということです。
※「怒り」は物質ではないので、同じような構造ではありませんが、分かりやすいので、あえて例えています。
すると、溜まり続けた「怒り(この場合の動機を不安としています)」はどうなるのかというと、出す必要がでてきます。出せる場所が必要なのです。そうしないと、溜まり続けて、それはやがて健康にも害を及ぼすことになりますから。それが口実です。
いつも怒っている人とか、すぐに怒る人を見れば一目瞭然ですが、怒った後にすっきりしています。その後に「激しい後悔」をするという人もいますが、そういう人は滅多に怒らない人です。私がここで言っているのは、しょっちゅう怒っている人です。いつも怒っている人は、いつも出せているので、意外と安定しています。ただ、「怒り」と「すっきり」を繰り返しますけど・・・。
では、怒りの口実がない場合は、どうなるのかと言いますと「溜まり続ける」。単純な構図です。出さないのなら溜まります。それを専門用語では「抑圧」と言います。抑圧された感情は増幅します。これも真理です。
「怒り」は悪いものであり、だから出してはいけないもの、だから封じ込める必要がある。それが「抑圧」です。
「抑圧」されたものは、感じないようにすることはできるかもしれませんが、なくなりはしません。蓋をしているだけであり、その蓋の中では増幅しているのですから、やがて限界値、臨界点に達します。
いつもは温和な人が、あることをきっかけに、まるで人が変わったかのように激しく怒るという現象は、このことを証明しています。あるいは、酔っ払うと「抑圧規制」が緩まりますから、酒癖の悪い人というのも抑圧を証明しています。そういう人は、怒った後に必ず後悔をしますから、もし自分が怒って後悔をしたのなら、普段は抑圧していると理解できると思います。
「怒り」をどうしましょう・・・。
先ほど「怒り」そのものは必要だと述べました。だからどうしようもないのですが、それだと社会生活上、支障が出るばかりか、人間関係を複雑にしてしまいます。いつも怒っている人には近づきたくないという防衛本能が働きますから、どんどん人が離れてしまいます。だから多くの人は「抑圧する」という道を選んでしまうのですが・・・。
では、どうすればよいのかと言うと、本来的に必要である「怒り」という感情をありのままに活用していくということです。たくさん怒りを出せと言っているのではありません。その「怒り」から気づいていくということです。その「怒り」を感じている自分を振り返る、内省していくといことです。
よく分かりませんね。
物質的に考えると分かりやすいかもしれないので、水とコップを例にします。
水道口から水が出ていて、コップに水が溜まります。
水を「怒り」として例えます。
すると、水道口から出ている水は出続けるので、コップに溜まった水は臨界点に達すると溢れ出ます。出すことで減るので、平穏な時間が訪れ、一時的には大丈夫です。しかし、繰り返します。それが口実を見つけるという意味で、その口実が社会的に正当であればあるほど、怒りの出し口としても正当化できるので、出した後の後悔も少なくて済むという単純な理由から、「抑圧」していたものを解放することができるのです。
ありのままに活用していくというのは、その状態を認識するということです。
「ああ、自分が怒っているのは、自分の中にある怒りが発動しているのだな」と。自分の中に在るのだと俯瞰してみることで、活用することがはじめて可能になります。それ以前、つまり、外側に原因があるとしているうちは、怒りの活用は不可能です。
実践してみたらすぐに理解できると思いますが、自分が怒った時に、
「自分は今、怒っている。」
「どうして怒っているのだろう。」
「そうか、そういう理由で怒っているのだな。」
「では、なぜその理由で自分は怒るのだろう。」
といった具合にです。すると「怒り」という感情はあっという間に消滅していきます。それと同時に、やっぱり「怒り」は自分の中にあったのだという深い理解に繋がっていきます。
「怒り」とは、自分の中にある「許せない自分」を、他者の中に「投影」しているにすぎないのです。「投影」という概念は心理学用語で、難解な理論ですから今回は詳しく述べませんが、「投影」で検索してみると、専門家の方が詳しく解説していると思います。
「怒り」をどうするか・・・。
繰り返しになりますが、まずは理解です。そして実践です。
実践することによって、2つのことが起こります。
1つ目は、水道の蛇口から出る水の量が減るという現象。自分の中にある「怒り」を理解したのなら、自然と蛇口は閉められていきます。閉めようとしてもしめられないものが、自然と閉まっていくという感じです。
2つ目は、コップそのものの器が大きくなります。自分の中にある「怒り」を認めたのだから、その人自体の器が大きくなるのは自然の摂理です。自分の中にある「怒り」を認め、「怒り」を活用できる人は器が大きい人です。自分の「怒り」を認められた人は、他人の「怒り」も認められますから。自分の「怒り」を否定している人は、他人の「怒り」も否定するしかありません。これもまた「投影」です。
きっと、1ヶ月ぐらい実践すると、実感しはじめると思います。
「怒り」を俯瞰すること。それは1円もお金がかからないので、自分の「怒り」をなんとかしたい人はやってみてください。
最後に、誤解のないように付け加えます。
「怒り」は感情ではありますが、普段、日常的に多くの人が使っている「怒りの感情」というのは、実は「心」「思考」の事を言っています。思考、つまり考え方というフィルターを通して、これは怒って当然のことであるという判断をしているのです。
俯瞰するというのは、このフィルターは何なのかを見極めるということです。
怒りをありのままに受け取るには、リラックスが必要ですから、お茶を飲むと良いかもしれません。日本人はお茶文化ですから・・・。
似たような記事を昔書いていましたので、
もし今回の記事を納得できた方は、ぜひ読んでみてください。