守・破・離という順序は全くもって正しい。
まずは「守」 教えを守る、教えに全面的に従う。
そして「破」 やがて教えは習性となり「守」は考えられない。
「守」が習性となったとき、自らの創造力が動き始め、守をベースにしながらも「破」は起こりはじめる。殻を破り始める。さなぎが蝶になるように飛躍する。一番楽しいとき、最も輝いていると自分で感じられる時である。
最後が「離」 それは一番苦しい時。そこを乗り越えるまでは苦しい。最後の物語となるだろう。
「破」は「守」が起こらなければ起こらず
「離」は「破」がなければ起こらない。
「守」も「破」もない「離」は「離」ではなく「逃」である。
ある人から離れなくてもよいほどに居心地がよくなったとき、すでに「離」ははじまっている。その人が必要なくなってきているという単純な理由から、「離」ははじまっている。離れ始めている自分にすら気づけないほど自然に離れはじめる。
しかし、その事実に気づいたときは、その事実に愕然とするだろう。
それは苦しみをもたらしはするが、すでに離れているので、やがて離れていると考える事もできなくなる。全ては忘却の彼方へと消え去る。それが自分で分かるから愕然とする。離れているのは相手ではなくて自分だったと気づく。
「離」は、離れまいとしたときにはすでに離れている。
離れまいとしているのは、離れているからである。
離れている自分に逆らうから苦しいのである。
もうすでに離れていると認めることである。
もしそれができたのなら、離れていないといういことが本当に理解できる。
だから「離」は最後の物語である。
「守」は始まりの物語。
「破」は自分の物語。
「離」は終わりの物語。
はじめなければ終わらないが、それは自分の物語もないということだから、怖がらないこと。離を越えたときにようやく離は喜びになる。離が起こるのなら、それは守と破があったという証拠であるから、離は喜びそのものである。
守を起こしてくれた人は、あなたの離を喜ぶだろう。
もし喜ばないのなら、その守を起こした人の愛は偽物である。
偽物ならば、離は全くもって苦しくはない。むしろ早く離れたい。
だがそれは「守」も「破」もない、ただの「逃」である。