私個人の事を言えば、私は良い教師であり、同時に悪い教師であるみたいです。もう少し分かりやすく言えば、2通りの言い方があります。
ある人にとっては私は良い教師であり、ある人にとっては私は悪い教師であるという違う人物から見た言い方。
もう一つは、ある人にとって、ある時は私は良い教師であり、ある時は悪い教師という同一人物の見方から見た言い方です。
どちらにせよ、それは同一人物です。
それは同じ人です
「アンという名の少女」というドラマを楽しんでみています(赤毛のアン)。日曜日の23時からNHK総合で放映されていて、ただ今シーズン3です。Huruだといつでも観られるようです。このドラマが本当に良くできていて、面白いのでお勧めです。
さて、このお話の中にフィリップ先生という登場人物が出てきますが、これがもうどうしようもない先生なのです。威張っているし、子ども達のことをあんまし考えていないし、授業も何をやっているのかさっぱり分かりません。
視聴者の私は当然、フィリップ先生を嫌いになる・・・かと思いきや、結構好きだったりするのです。威張っているにのには何らかの理由があるはずで、きっとそれは寂しい感じだろうし、人間味溢れているというと語弊があるかもしれませんが、煩悩の塊みたいなところが憎めないのです。
物語が中盤にさしかかると、フィリップ先生の結婚問題が出てきて、結婚式当日に逃げられてしまいます。それでフィリップ先生は番組からさようならをします。その辺りで、フィリップ先生の悩ましげなシーンがいくつも出てきて、普通に観れば視聴者に好感が持たれるように演出されています。
あるシーンで嫌いになり、あるシーンが加わると好きになる。
でもね、同じ人です。同じ人の違う側面なだけなのです。
ドラマのお話ですが、ドラマというのは実生活の経験から生み出されているので、このようなことはよくあるということです。
フィリップ先生がいなくなった後、ステイシー先生がやってきます。
ステイシー先生は女の先生で、はっきり言って良い先生です。
フィリップ先生とは比べものにならないほど子ども達の将来を考え、授業もうまく、そして明るい雰囲気で使命感もあります。
ところが「進歩的な母の会」という全く進歩していないお母さん達の集まりから超嫌われます。どうやら、子ども達を堕落させているということが理由みたいです。(本当の理由は若くて綺麗で、子ども達から人気があるからですが)
やめさせるための集会なんかも開くわけですが、アンを中心とした子ども達の活躍と、ステイシー先生自らが訴えたこともあって一件落着します。
リンド婦人はステイシー先生を弾圧する急先鋒でしたが、その一件の後は一番の理解者を名乗り出るくらい親しげにします。
街全体の誤解が解けたという見方もできるでしょう。
でもね、ステイシー先生は変わっていないのです。同じ人です。
弾圧されている時に、ステイシー先生が子ども達に言った言葉があります。
「人はね、自分の見たいように見るものよ。」
これが今回お伝えしたい内容です。
それは同じ人です
テレビの報道を見ると、よく見かける光景があります。
ある一時は超もてはやし、素晴らしい人物だと褒め称え、しばらくすると、なんらかの不祥事を見つけて「とんでもない人物だ」とこき下ろすという現象。
何度も言いますが、それは同じ人です。
同じ人の違う側面であり、そもそもその違う側面ですら、偏った見方、つまり自分が見たいように見ているに過ぎません。よく考えれば、テレビに出ている人のことなど、ほんの表面的な一側面、作られた一面、編集された一面しか見ていないのです。それで知っているつもりになっている。あの人は素晴らしいとか、あの人はひどい人だとか、あーだこーだ言うのです。
でもね、知らないでしょ?
テレビの事で、自分には関係ない事だと思わない方が賢明です。
これは聞いた話ですが、ある人が親にとっての自慢の子どもだったんですって。でも、色々な出来事があって、とんでもない子どもになったということ。
その人は嘆いていました。
「私は全く変わってないのに・・・。」
本質的なことは変わっていないのです。
ただ、変わったことと言えば、昔は親の顔色を見て、親の前で良い顔しか見せていなかったけど、それをやめたというだけです。そもそも昔から我慢していただけで、その我慢しているという事実を親は見ようとしていなかったのです。
人はね、自分の都合で、自分の見たいように見るのです。
そして、それに合わないと急に悪い人にしちゃう。
そう見ちゃうのは仕方ないんですけどね。
ただ、そういう風に見るのをやめることはできます。
どの側面も否定せず、ありのままに見ることはできます。
難しいですけど、やると決めればできます。
コツは、気づくことです。
「あの人は悪い」と感じたら、「なぜそう思っている自分がいるのか?」とか、「他の側面はどうかな?」とか、「そもそも自分を縛り付けている善悪の判断はなぜあるのか?」とかね。
そのことに気づくと、同じ人物を褒めたりけなしたりしている現象がいかにくだらないのかが分かります。そして、そのことを本当に理解すれば、人からとやかく言われても気にならなくなりますよ。
人は自分の見たいように人を見るけど、同じ人ですから。