Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

泣いていいんだよ

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 NHKで放送されている「アンという少女」というドラマが秀逸です。もう、たくさんいいこと言っています。感銘を受けたシーンがたくさんあるので、何回かに分けて私見を書いてみます。以前、ステイシー先生の言葉「人は見たいものしか見ないのよ。」に関する記事を書きましたので、今回は2回目になります。

 

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泣いていいんだよ

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 登場人物のバッシュは黒人です。

 物語の時代では、まだまだ人種差別がはびこっていますので、白人と黒人の住んでいる場所が違います。バッシュはアンの友人(白人)のギルバートと知り合いになり、アボンリーの町に住むようになります。

 バッシュは、色々あって黒人街の存在を知り(ボブ地区)出かけます。そして、そこでも色々あって、洗濯屋のメアリーと出会い結婚します。

 しかし、子どもも生まれて順風に見えた矢先に、メアリーの病気が発覚し、メアリーは死んでしまいます。

 バッシュは涙をこらえて葬儀を済ませ、悲しみに沈んでいました。

 そこへ、牧師さん(黒人の)が来て話しかけます。アボンリーにも牧師さんはいますが、人種差別がひどい時代なので、ボブ地区から招いています。ですから、メアリーのこともよく知っている牧師さんです。

 その牧師さんが葬儀が終わった後で、悲しんでいるバッシュの元へ来ますが、バッシュは、何も聞きたくないと言います。時間が解決してくれるなんて聞きたくないと言うのです。

 しかし牧師さんは、君さえ良ければメアリーのことを話そうと言って隣に座り、メアリーが10才の少女だった頃の話をします。少女だった頃のメアリーの姿を感じ、涙をこらえていたバッシュは泣き崩れます。

 その時、牧師さんは言うのです。

「それでいいんだよ。」と。

 

 

 泣いていいのです。いえ、泣いた方がいいのです。悲しいのなら泣いた方がいいのです。物語はそういうシーンでした。

 

悲しいから泣くなら・・・

 涙というのは不思議な力があります。

 感動しても出るし、悲しくても出るし、悔しくても出るし、嬉しくても出るし、笑いすぎても出るし、目にほこりが入ってもでます。

 そして、誰かが感動して泣いていたとしましょう。すると、それに触れた人も伝染し、感情が流れ込み、同じように心揺さぶられてしまいます。

 それはつまり、涙によって感情というものが表出されているからでしょう。涙というのは、心の深いところ、感情が揺れることで出てくるのです。

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 ですから、目にほこりが入った場合や、目つぶしをくらった場合は、身体の防衛反応ですから除外します。また、涙を流すことで他人をコントロールしようとする場合も除きます。

 

 悲しいのに泣かないのなら、悲しみを否定しています。

 悲しくて泣くのなら、感情を表出していますから、前へ進むことができます。

 

 ある母親と面談したときのことです。

 そのお母さんは娘が泣くと「すぐに泣くから、泣くのをやめなさいと怒るんです。」と言っていました。「私はすぐに泣くのを見るとイラッとしちゃうんです。」と言うわけです。

 

 人は自分に許していないことを他人に許すことはできません。

 逆の言い方をすれば、自分に許していることは他人にも許せます。

 つまり、お母さん自身も自分が泣くことを許していないのです。

 話を聞くと、小さい頃から私は泣くのを我慢して育ったと言います。

 私は、「泣いたっていいじゃないですか。自分が泣くことを許せるのなら、お友達が泣いているときに、泣いていいんだよと言える子になりますよ。」と伝えました。

 

 涙には心の浄化作用があります。悲しい気持ちを封印するのではなく、悲しい気持ちを肯定してじっくりと感じる。すると、悲しい気持ちは嬉しい気持ちとセットであり、コインの裏と表の関係であり、表現することで健全に役立つことが分かるのです。

 それは、悲しんでも大丈夫なんだという理解です。しっかりと悲しめた人、あるいは悲しみと向き合えた人は、その悲しみの経験が力強く自分の中に根付き、前へ進むことができます。

 

 悲しいから泣いているのなら、それはOKです。