仏とは仏教であり、ブッタであり、書籍によれば実在人物です。
よく「神様仏様」と言いますが、別物です。
神は人ではなく、仏は人です。
厳密に理解すれば、それらは同じということにはなりますが、分かりやすいので仏陀は人であるという前提でお話を進めます。
仏は誤用されている
仏陀は悟りを開き、涅槃(ニルバーナ)に達したとされています。
あらゆる苦悩を乗り越え、人はどうすればその苦悩から逃れることができるのかということを探求し、苦行を持って苦行が必要ないと理解したり、最終的には自分という者はどこにも存在しないなんてことも発見したりしたと書かれています。
この辺りの専門的なお話は、そういう書籍が出されていたり、ネット上にも説明を見つけることができるので、私は違う視点で書きたいなと思ったのです。
それは「仏」という言葉が体よく便利に使われてはいるけど、それは「仏」ではないんだろうな~とふと思ったのがきっかけです。
まずは誰でも聞いたことがあるだろうこの言葉。
「仏の顔も3度まで」
「同じようなことを繰り返していると、例え仏様であっても3度目には怒るよ」というような意味だと思います。それは3回繰り返したら怒っても仕方がないという意味で使うかもしれませんし、そんなに繰り返して怒らない人などいないという意味かもしれません。どちらにせよ、怒るための口実として使います。
しかしよくよく考えてみれば、これはおかしいのです。仏陀は人を越えた人です。全ての苦悩を乗り越えた人ですから、人でありながら人ではないのです。
それで、怒るのは人です。
ですから、もしも怒るを仏と関連づけて正しくいうのなら
「仏の顔は何度でも」
が正しいでしょう。
次にこの言葉。
「知らぬが仏」
「知らないと仏のように穏やかに対応できるけど、知ってしまったら仏ではいられないよ。だから知らない方がいいよ」という意味だと思います。
しかし、これもよくよく考えてみればおかしいのです。仏は全く関係ないのです。知らない方がいいよだけはあっていますが、それは仏とは関係がない。
だって、全てを知ったとしても穏やかな状態が仏陀ですから。
心乱されていない。
でも、「知らぬが仏」という言葉には、「知ってしまったら大変!」というニュアンスが含まれています。その大変さが悟りには必要なのでしょうから、もしも知ることと仏を関連づけて正しく言うのなら
「知ったとしても仏」
が正しいでしょう。
最後にこれ。
「仏のような人」というような言い方。
これも仏に関する「穏やかさ」だけをフォーカスして使っています。
それはもしかしたら、ただ静かな人かもしれませんし、あまり怒らない人かもしれませんし、心が広い人という意味で使われているのかもしれませんが、例え話であっても仏陀の「穏やかさ」にフォーカスしているという点では同じです。
しかし、全てを悟った「穏やかさ」とは何かと突き詰めていくと、到底、普通の人がたどり着ける場所にはないということが分かります。
ですから、その「仏のような人」という場合の「仏」とは、たいていの場合は「仏というお面」にすぎません。そのように振る舞っているから、そのように見えるというだけです。
私たち人間は、そんなに悟りを開いてはいませんから。
日本の仏教は・・・
以上の理由から、怒られちゃうかもしれませんが、日本の仏教もかなりあやしいです。仏教があやしいというよりも、お寺があやしいのですが、もし私の記事でお寺の住職さんが怒ったのなら、「仏の顔は一度もない」ということになり、やっぱり最初の諺が間違えているということになります。
批判するのは投影です
今回の記事は「仏」が入り口でしたが、本当にお伝えしたいことはここからです。それは「批判」と「投影」についての関係です。これを説明するのに私も「仏様を活用させてもらっている」のです。
そして批判の代表である「怒り」もまた投影です。
怒りの感情というものは、たいていの場合は自分の中にしかなく、突き詰めれば全て自分の問題です。説明がややこしいので、以前に書いた関連記事を貼り付けておきます。
まず最初に理解しなくてはお話が進まないのは、仏陀は自己そのものを消滅させたということです。自分の中は空っぽであるという表現を使うので「空」という言葉がよく登場します。
全ての自分を受け入れ、そして捨てる。そんなイメージでいいと思います。
すると、自分の中にあるもの全てにOKを出しているのですから、自分自身に関しては何も批判していないのです。ですから、投影のしようがないのです。その結果、怒るということはないということになります。
仏教の代表的な教典?である「般若心経」は、あなたは全部OKで、「なんでもいーんだよ」と、本当に簡単に説明すると、そのようなことを言っているのです。
ただし「怒り」という感情を意識的に活用する、道具として使うということはあります。ただ、怒り心頭という状態ではなく、あくまで「効果的だから方便として使う」という状態です。教育界で言う時の「アンガーマネージメント」という考え方も、道具としての「怒り」の派生でしょう。「怒る」と「叱る」は違うとも言います。要は完全に自分のコントロールできる範囲にあるということです。
人は誰でも必ず投影しています。
自分の中で許していないことを他人に見つけたとき、そこに口実を見つけて批判するのです。投影しなくなったら、もうなくなったということで仏に近づいています。
すると「仏の顔は何度でも」や「知ったとしても仏」が正しいということが分かります。仏状態、すなわち抑圧しない状態での穏やかさは、そうたやすくたどり着ける場所にはありませんから、抑圧しているかどうかに気づくにも相当大変ですが、できないということはありません。
まずは、仏の誤用に気づき、仏とはどのような状態かを知りたいな~と思うところがスタートだと思います。
でも、難しそうだな~と感じるでしょうから、さらに「まずは」になりますが、手塚治虫先生が描いた名作漫画「ブッダ」がお勧めです。
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名作過ぎるので、ご自宅に置いておくと何度でも読み返せていいですよ。
ちなみに、私は愛蔵版を全巻家に置いてあります。
置いてあることに満足して読み返してませんが・・・・。
話はそれますが、名作は何度でも振り返りたくなるから名作なのでしょう。以前に名作漫画の記事も書いたので、貼り付けておきます。気が向いたら覗いてみてください。ちなみに、私が名作だと思っているというだけですが・・・。