本当の事はよく分かっていません。本当だと思っているというだけで、それが本当かどうかはかなり疑わしいことが多々あります。「本当=真実」という表現でも良いですし、「本当=根底」でもかまいませんが、要は本当のところはどうなのかを知るための記事です。身近にある「本当だろうか?」という疑問があったときに役立つと思いますのでお裾分けです。
本当の事は自分で分かる
まず「違和感」というのは本当だというところから始めます。「違和感」は本当に役立ちます。「違和感」というのは、自分の奥深いところで感じることができ、「違和感」が示している感覚は、たいてい当たっています。
この「違和感」は、ある事実に対して、多くの人が正しいと思っていることについて、自分はそうは思えないというときに起こることが多いです。
しかし、多くの人が正しいと信じているので、なんとなく引っ込めてしまうような儚さあがあります。あるいは「自分は変なんだ」と自己否定さえ引き起こしてしまいますが、「違和感」は、かなり正確です。まずはこれを念頭に置いてください。
次に「違和感」は磨くことができるということをお話します。「違和感」は感覚の1つですから当然磨けます。磨き方は「意識すること」です。味覚を育てるのなら味にこだわるでしょうし、聴覚を磨くのも神経を集中させるとできます。ピアノの絶対音感なんていうのは、訓練で身につく側面が大きいことを考えれば、同じ感覚である「違和感」もまた、磨くことができるということです。
この「違和感」は「ちがう!」という感覚や「うん?なんかおかしいぞ?」という得体の知れない心地悪さ、「あやしいぞ~」という疑惑などに表れます。そういう意味で「違和感」=「直感」としても同じ意味になります。
将棋の羽生さんは、将棋の対局において「直感」の9割はあっていると言い、「直感力」を磨くことが大切であると本に書いてありました。長考するのは、残り1割の可能性を探ることと、9割が本当かどうかの検証、理由づけということだそうです(簡単に言うとですが・・・)。
最後に「違和感」は常に否定されやすい運命にあるということをお話します。周りからも自分自身からも否定されやすい側面があるのです。特に「多勢に無勢」という言葉が示すとおり、「多くの人がそう言ってるんだから、そうなんじゃないの?」とか、「専門家の人がいうのなら、それでいいんじゃないの?」とか、「昔からそういうことになっているから、正しいんじゃないの?」と言った具合に、せっかく芽生えた「違和感」は否定されます。
でも、そもそも本当に本当ならば、最初から「違和感」というのは発生しないわけです。なんかおかしいな~という感覚は、あくまで個人のものであって、他者のものではありえない。自分自身のものを他者が決めること自体がおかしいと気づかなくては、今回のお話は進みません。
私はこれまで、とてもたくさんの「違和感」を持ってきました。それで、それらをよーく考えて自分なりの結論に達したことがたくさんあります。それは世間から見ればとても評判が悪いことばかりでした。ですから、自分なりの結論には達したけど、他の人に理解してもらった経験は少なく、ただ「そうではないのだよ。」と説明はしてきましたが、根拠と呼べるものは「自分の考えでは・・・」に留まっていました。
その後、評判の悪かった私の「違和感」や「直感」が正しかったという側面を、様々な書籍の中に見つける機会が増え、知識がなかったときも最初から「違和感」があったという事実に驚いた時期があります。
本当の事は、はじめから知っているのです。
これもまた、本当の事です。
学ばなければ何も知らないのではなく、学ばなくてもはじめから知っているという、受け入れ難いであろう事実もまた、本当の事です。不確かではあっても、そのことについて何も知らないのに、根拠があろうがなかろうが「違和感」が発生するのなら、はじめから知っているという証拠になります。
注:今回の違和感は、社会的なことと自分の考えに限っています。
人を疑うのではなく、社会全体を対象としているので、自分の経験を当てはめるときには、個人的な恨みや妬みなんかは除外してくださいね。
評判が悪い本当のこと・・・
たくさんあります。が、評判が悪いでしょうから、当たり障りのない内容をいくつか厳選して3つだけ私の経験をお話します。
1つ目は「厄払い」です。
最初の違和感は「祓えているの?」という疑惑。または「祓えてないと思う。」という直感。そして、そもそも「祓う必要があるのか?」という疑念です。しかも「前厄だ」「本厄だ」「後厄だ」と3年間もかかる厄って何だ?という素朴な疑問と、「しつこいな~、厄は他にやることないのかね?」というあきれるにも近い感覚。
私の結論は、厄払いは別に必要ではないということです。ただ、それで心が静まったり、安心したりできるのなら、お金を払って「祓ってもらう」でも問題はありません。
ただ、祓えているのか?と聞かれれば、祓うことは難しいでしょうと答えます。よほどの霊感の強い人ならできるかもしれませんが、その辺の神社では難しいでしょうね。そして、そもそも祓う必要があるのはどうしてなのか?も考える必要があります。さらにつけ加えるのなら、祓ったら他のところに行ってしまうじゃないですか。正しくは祓うのではく、説得して消えてもらうではないでしょうか。
「厄払いの儀式は祓えていないし、祓う必要もあやしい」が私の至った結論です。
※お正月なので、初詣に行ってきました。余談ですが、これは必要であるというのが私の至った結論です。これは評判がいいでしょうね!
※事例は、あくまで私の至った結論ですので、他の結論に至っている人は、それでいいですからね。
2つ目は「みんなの意見」です。
「みんなの総意」とか「みんなが言っている」とか、もう「みんな」がつくあらゆる事に採用されています。私に言わせれば、みんなの意見が一致することなどあり得ません。ある部分では一致させることはできるかもしれませんが、それも温度差があります。
大学生の頃、部活動が連戦、連勝していたのです。
すると、士気があがりますから、私から言わせれば「なぜかもっと練習を!」ということになり、なんと「朝練習もしようじゃないか!」という事になってしまいました。「みんな勝ちたいでしょ!」みたいな感じです。
でもね、私は部活を楽しんでいるのであって、勝てば嬉しいし、負ければ悔しいかな?はありますが、「勝利」というもの自体にはそれほど固執していないのです。そしてそのことが「みんな勝ちたいと思っている」が成立しない確実な証拠です。
私は「まあ、勝ちたい人もいるでしょうね。それはそれでいいんんじゃない?」と思っていましたが、当時は大学1年生の後輩身分でしたので、和を乱さないために練習には参加しました。
「みんな思っている!は、みんなではなくて、そう思っている人もいるよということで、その筆頭があなただというだけですよ。」というのが私の至った結論です。
なるべく評判の悪くなさそうなものを選んでいるつもりですが、読み返してみると、評判悪いかもしれないな?と考えさせられてしまいます・・・。最後の1つは、本当に評判が悪くなさそうなことを・・・・。 大丈夫かな~。
3つ目は、そうだねえ・・・、「三角食べ」がいいかな?
うん? これも評判が悪そうだな~。
「選挙」はどうかな?
うん? これはかなりやばそう。
「恋愛」は・・・・昔から評判が悪かったからやめとこ。
「戦争と平和」は・・・スケールが大きすぎる!
「宗教」は・・・抹殺されるおそれがありそう。
スケールが大きいのはダメですね。
小さいの、ものすごく小さいの・・・・。
「先輩」や「年上」、これがいい!
3つ目は「先輩」です。
とても個人的なことだから大丈夫でしょう。
私はかわいい後輩だったんです。年上を敬い、先輩の言うことは「はい」としか答えない。部活動が長いので、そのように教育されていますし。親しき仲にも礼儀ありとか、礼節を重んじるということは美徳ですから、全くもって適合しています。
すると先輩も後輩としてかわいがってくれる。師弟関係という良好さは、建設的な関係と言えます。少なくとも、私の小学校、中学校、高校時代においては、先輩は後輩の面倒をよく見てくれる存在で、それを見習って自分も先輩になっていったのです。
ところが、私が大学生の頃、その当たり前だと思っていた「先輩」「後輩」の関係に違和感が生じます。それは、全くお世話になっていない当時の先輩が、ただ威張っているのです。お世話になっていないのに、なぜか説教だけはされるのです。しかも悪いことなど全くしていないのに・・・(自分の認識では)。
その時、私は思ったのです。
「ちょっとばかし先に生まれただけで、君は別に偉いわけでもすごいわけでもないのだよ。」と(そんなことは当時の私には言えませんが・・・)。
これと同じように、女子が「年上が好き」と言う時、私は「歳は関係ない」という立場です。年上だから年下よりも人間として成熟しているということはないのです。ただ学年が上だったり、自分よりも数年ばかり生きているというだけで、経験値においてはほとんど関係ありません。10才年上というのは、10才老けているということと、平均寿命に照らし合わせれば10年先に死ぬということと、もしかしたら経済的なゆとりがあるかもしれないということと、相手が年上だと自覚しているならば、自分の少しばかりのワガママは許されそうだということと、周りから自分が(なぜか)大人だと見られるかもしれないというエゴとぐらいでしょう(けっこうあるな~)。
・・・やっぱり「年上」って関係あるかな?
もちろん、素敵な先輩は存在します。しかし、ただ生まれた年が早いだけで「先輩」という肩書きに安住している人は、私は「先輩」だとは見なさず、「ただ生まれたのが少し早いだけ」の存在なのです。
「先輩と慕われるのは、後輩のためになんからのことをした人だけである。それ以外はただの他人に過ぎない。」というのが私の至った結論です。
これ言うと、嫌われちゃうかもしれないけど、あえて言います。
同胞なんていうのもかなりあやしいです。出身校が同じだというだけの連帯感のことです。それは、共通な話題があるという事だけです。
だから私は、OB会なる組織が昔から嫌いです。OBですよという顔をして近づいてくる人も、最初は受け入れますが、威張っているだけなら必要ありません。
本当の事が知りたければ・・・
かなり前置きが長くなりましたが、ここからが今回のテーマです。
本当の事を知りたければ、知るための手順があるので紹介します。
その手順の中に「違和感」や「直感」などが入ってくるので、どうしても説明が長くなってしまいました。
でも、もうかなり長文になってしまっていますので、あえて
つづく!