もし何を信じたらよいか分からなくなったのなら、もしどうしたらよいか分からなくなったのなら、もし違和感が襲いかかってきているのなら、それは大変よい兆候です。そんな時は「健全な疑い」をすることをお勧めします。
健全な疑い
人は何かを信じています。あるいは何かを信じていません。
驚くかも知れませんが、「信じる」と「信じない」は同じです。
信じないというのは、「信じない」ということを「信じる」のです。「信じない」は「信じる」の別の側面に過ぎず、同質なのです。
ですから「疑う」と「信じる・信じない」は別物です。
別物である物を同質と捉えると不都合なことが起こります。それが「信じない」から生じる疑いであり「不健全な疑い」です。「不健全な疑い」からは不健全なものしか生まれません。
「健全な疑い」は、もっと肯定的です。肯定的であるという理由で創造的です。これまでに素晴らしい発見をしてきた学者達は、この「健全な疑い」をしてきたと言えるでしょう。「楽しい疑い」「本質を求める疑い」「求めずにはいられない疑い」など。
では「健全な疑い」とは何かと言いますと「好奇心」です。
生まれて間もない赤ちゃんは3つの特質を内面に持っています。
「好奇心」「確信」「希望」。
なんでも触ってしまうのは「好奇心」。
生が素晴らしく、愛されているという「確信」。
そして、世の中は楽しいことが待っているという「希望」。
つまり、好奇心は誰もが生まれ持っている性質であり、生まれ持っているという単純な理由で自然な姿だと言えます。その中の「好奇心」から生まれているのが「健全な疑い」です。それはどうしても自分で確かめざるを得ない、自分の体験としなければ納得できない代物です。
ところが、人は、成長するときに何かを信じ込まされていきます。
その信じるという行為が、疑うことを許さないのです。
何かを信じると楽だからという側面も多いにあります。
だから、楽なうちは問題ありません。
しかし、楽ではなくなったのなら、それは違和感が発動しているということですから、疑うことで何かを見つけることができます。
その時、「健全な疑い」をお勧めします。信じないことの理由を探すのではなく、単純な好奇心を発動させるのです。もっと知りたい、もっと理解したい、もっと経験したいという自然な動機です。
ちなみに、成長する中で人は本来持っている能力を失います。
好奇心は「信じる・信じない」ということを通して、人を機械的に。
確信は「愛されていない」ということを通して、人を依存的に。
希望は「人生は不自由である」と言うことを通して、人を失望的に。
しかし失ったということは、本来は持っているということでもあります。そして本質的な性質は失ったように見えてもなくなる事はありません。ただ覆い隠されているだけです。