Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

学習規律とはただのマニュアルに過ぎない

 このブログは教育特化ブログです。そのことを忘れていました。

 教育的なことを書きます。

 学習規律、これが数年前から流行ったのですが、私はこれに反対の立場です。しかし、学習規律ブームですから、多くの現場では「学習規律が整っている教室は素晴らしい!」としています。あげく「チーム○○小学校」みたいなものを立ち上げ「○○小スタンダード」という標語を掲げ、学校一丸となる姿に酔いしれています。

 とても批判的な記事ですので、どうぞ批判的に読んでくださいね。

 批判もまた批判される立場であるというのが私の考えですから、鵜呑みにするのではなく、私の考えもまた批判的に読んでいただけると嬉しいです。

 

学習規律はただのマニュアルに過ぎない

 まず、学習規律とは一体何なのかの一例を示します。

チャイム着席(チャイムが鳴ると同時に授業が始まる)。

きちんと座る(前を向いて背筋を伸ばして椅子からお尻を少し離す)。

机の上はノートと教科書に加え、鉛筆、消しゴム、ミニ定規、赤鉛筆が所定の場所に置かれることが望ましい。

手を挙げるときはピンと伸ばす。

・私語は厳禁。話している人がいたら体ごと話している人の方に向ける。

 学校によって程度の違いはあるでしょうけれども、まだまだあります。ノートの統一、学習用具の統一、家庭学習の徹底、挨拶の仕方、休み時間の過ごし方、給食のルールなどなど、ありとあらゆる規律に発展している場合もあります。

 対子どもだけの話ではありません。対教師にもあります。

・授業は最初に課題を提示して最後にまとめるのが良い授業。

・学習規律がきちんと整っている学級運営ができる教師は良い教師。

・子どもを統括し、きちんとさせることが正しい学級経営。

 こういったことが暗黙の集団意識として、さも「それが正しいのです」みたいな顔をして、そうでない人を攻撃する口実として存在しています。

 一見するレベルならよいでしょう。でも馬鹿げています。

 上記に羅列したことは、どれも大切なことではあるのですが、全て理由があり、その理由を理解しないままで使うとなると馬鹿げているという意味です。そして、さらに馬鹿げているのは、その画一性です。

 教育というのは対象が人です。物ではありません。人で在る以上、画一ではないのです。様々な人が教師になっており、様々な人が子どもをやっています。

 個性の尊重、一人一人に寄り添った教育が大切だと言っておきながら、学習規律は画一性を重視しています。本当は個性の尊重のための学習規律という土台なのですが、その土台ばかりが注目され、土台であるもに過ぎないものが賛美され、土台に偏ってしまうことが問題なのです。

 あくまで主役は子どもたちで、教師は脇役です。

 

 学習規律が示していることは、基本的なことです。基本的なことですから主役レベルのことではなく、できるようになれば通過するようなささいなものであり、応用されるものであり、使いこなされるような小さな、とても小さなものなのです。

 ただのマニュアルです。

 マニュアルというのは、できない人のためにあります。

 できるようになったら、マニュアルは捨てられるようなものです。

 ただの説明書です。

 説明書通りにできることは大切ですが、できるようになったのなら必要ない。

 そんな小さなものを主役級にして、それが学校のスタンダードで、それが落ち着いた学校であるというのは、ただただ馬鹿げているのです。

 そもそも人って、そんなに簡単じゃない。教育というのは、もっと泥まみれなもの。ぐちゃぐちゃで血の通っているもの。その泥まみれの中から美しい花が咲く「蓮の花」のようなものなんです。

 

 誤解がないように、もう一度繰り返しますね。

 学習規律そのものは、全てに理由があり、土台としては必要である。しかし、それはひとつの方法論であって、画一するようなものではない。ただし、できない人にとっては、とりあえずそれをやっていればOKであるマニュアルに過ぎない。

 学習規律というブームがなぜ生まれたのかということを考えれば、仕方ないかな?とは思いますが、それが行きすぎて主役になってしまうことが問題なのです。

 学習規律は主役になれる器ではありません。あくまで土台です。

 

 私が本当に心の底から馬鹿げていると考えている理由は、学習規律などすでに通過し、子ども達のことをよく見て、その子にあった、その子に今必要なものを与える素晴らしい教師の脚を引っ張っているという事実です。同調圧力が・・・。

 本当の問題に向き合うこともせず、目に見えるとても簡単な規律、とりあえず体裁を整えている規律にばかり気を取られ、臨機応変力を失わせているのです。さらに教師一人一人が自分で考える力も奪い、それはつまり、子ども達一人一人が考える力も奪います。画一性というのは必要な場面もありますが、私たち教師が本当に伸ばしたい力は創造性なはずです。子ども達の自由な発想、自発的行為、自主的な態度です。

 学習規律が土台としてあるのなら、それでいいのですが、それを賛美してはいけません。ノートの統一、学習用具の統一などは、指導のしやすさや使いやすさという観点からはよいのですが、子ども達が自分で選んで買ってくるという楽しい機会を奪っているという事実も見逃せません。

 チャイム着席も土台ではありますが、そこを強調すれば、当然ですがチャイム終わりも必須なはずです。教師もチャイムがなったときには教室にいなくては筋が通らないし、終わりもチャイムと同時に常に終わらなければ、子ども達にだけチャイムを強く言うことはできないはずなのです。

 

 うーん、まだまだ学習規律賛美による弊害があるのですが、だんだん文句だらけの記事になってきたので、この辺でやめておきます。

 

まとめ

 学習規律って言うのは、ただのマニュアルに過ぎないので、ほどよく上手に使いましょう。