Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

困った状況をあえて作り出す

 現在、特別支援学級で子ども達と携わっています。特別支援というのは、特別な支援を有する児童へのアプローチ。よく「困り感」という言葉が使われていて、通常の児童では困らないようなことが困るので、それを無くして、通常授業と同じような状況を生み出しましょうという、ざっくばらんに言うとそんな感じです。「合理的配慮」という言葉も流行していますが、まあ、同じような内容です。

 「困り感を無くしましょう」というのが一般的ですが、私はあえて「困り感」を作り出します。その理由をお話します。特別支援でなくても、通常学級でも応用できるアプローチ方法なので、役立つと思いますのでお裾分けです。

 

1 困らないと分からない

 過保護、過干渉、ネグレクト。この3つが子育てをするときに避ける必要のある状態です。子ども達の自立を妨げる3つ。子どもの健やかな成長を邪魔する3つです。

 私が見た限り、特別支援学級を受け持つと、受け持ち人数が少ないからなのか、「過保護」と「過干渉」状態になりがちです。

 そして、それを「支援できている」としていまう。

 外側から見たとき、担任があくせく動いているので、仕事をしているように見えるから、見栄えもいいでしょう。

 私が今年度受け持った5年生の一人が、4月の時点では、ほとんど何もできませんでした。困ったらキョロキョロと周りを見て、誰かの助けを呼ぶわけでもなく、周りの人が気を遣って手を貸しますが、当の本人は「ありがとう」の一言もない。いつでもどこでも手を貸してもらえるのです。キョロキョロと周りを見たらね。

 私は「これはいかんなー」と思いました。きっと、これまでの方法が今の状況を生み出しているのだから、別の方法を使う必要があると考えました。つまり、手を貸し続けて何もできなくなっているので、手を貸さないということ。これを辛抱強く続けることを選びます。しかも何もやろうとしない場合は、お説教までします。

 友だちに手を貸してもらって何かできたときは、「お礼を言ってきなさい」と、厳しく指導もします。甘やかされているので、ここも大きく方向転換です。

 反対に、何かをやったときは、結果がいまいちであっても、やったことそれ自体を多いに褒めちぎります。図工の時などは、へんちくりんな絵を描きましたが、自分の力だけで描いたので、それがいかに素晴らしいかということを多いに価値づけたりしました。

 今、2月の中旬です。かなりのことができるようになってきました。

 その子は「できない子」と、周りの大人たちから決めつけられていました。私はずっと「できなくしているのは周りの大人であって、その子なりにできるようになるんだよ。」と主張し続けてきました。

 なぜ主張する必要があるのかと言うと、周りの教職員の協力、保護者の協力が必要だからです。私一人の力ではできません。私はきっかけを与える存在です。

 4月当初、私はある程度児童の実態を分析したあと、手を貸さない方式を採用しました。ところが、支援員さんというサポートしてくれる人がいるのですが、これまでと全く違う方法に戸惑います。

「全然できていませんが、どうしますか?」

「たぶん、説明を理解していませんが、どうしますか?」

「作業が遅れていますが、手伝いますか?」

 時と場合によりますが、私は「放っておきましょう。」とか「見てるだけでいいです。」と伝えます。

「困ってますけど・・・」

「それでいいです。多いに困らせましょう。」

 この方針を理解してもらうのが難しいのです。大人が理解するのが難しい。

 私は、この「困らすことの効果」について、何度も説明をし続けました。

 

・今まで困らなかったから、今、何もできない子になっているのです。

・何でもやってもらうのが当たり前になっています。

・自分で考えることを放棄しています。

・なんでも手伝ってもらうのは、自分は何もできないという自己否定感を助長しています。

・やれば必ずできるようになります。その子なりにできるようになるのです。

・なんでもやってもらったら、楽しくないでしょう。

・自分でやらないと絶対に分かりません。

・時間はかかりますが、ここは辛抱です。

・放置ではありません。見守るのです。

・大人になっても、ずっと自分の事を人にやってもらえることはありません。

 などなど。

 

 7月頃から変化がでてきました。3ヶ月ぐらいかかったことになります。

 それぐらいは時間がかかると心得ておくとよいでしょう。

 今は2月ですが、自分でやろうとする態度が育っただけでなく、明るくなり、自分の主張が少し強くなり、子どもらしく動き回ったり(元々はほとんど動かない)、4月の頃は無理だと言われていたいくつかの学習に関してもできるようになりました。

 

 大人は「困らないようにする」ことを美徳にし過ぎています。

 そしてもっと言うのなら、大人が「困っているんじゃないかな?」という見方をしているだけであって、よく見たら、子どもは困っていないということも多々あります。

 困らないと考えません。大人だってそうでしょう。

 

2 最大の難関は身内にある

 支援員さんは、ずっと私と共に過ごしています。子ども達の変容を目の当たりにし、私のやっていることの説明を随時聞いているので、この「困らせること」と「見守ること」を具体的な体験として理解してくれています。そして、その効果についても目の前の子どもの姿が証拠になりますから、深い理解も起きています。

 反抗的な子、言うことを聞かず、暴言がひどい子も受け持っています。同じように手を貸さず、強制せず、見守るを基本路線にアプローチを続けてきた結果、普通に会話ができるようになり、明るくなり、会話量が増え、表情がとてもよくなりました。

 しかし、私や支援員さん、交流学級の担任とは良好関係になりましたが、突然やってくる先生方には基本的に反抗的態度です。すると、反抗的な態度をとる児童に対し、担任である私が注意しないのがおもしろくないようです。

 私の理解では、そういった反抗的な子は、好きで反抗的になっているのではなく、深い理由があって、仕方なく反抗的になっています。それは根強い大人不信でもあります。ですから、反抗された先生が直接やりとりをして信頼関係を築く必要があるのです。私がその児童と他の先生を仲良くさせることはできません。それで「見守る」だけです。

 ところが、いつしか不穏な声が聞こえてきました。

「担任は何もしていないじゃないか。」という声。もちろん否定です。

 まあ、否定される理由は複雑で、この何もしていないから私が否定されているというのも口実ではあるのですが、まあ、とりあえず目の前の口実を消さないと、教育上、運営が難しくなるので反論します。 

 反論と言っても、実は私のところに直接そのような苦言はやってきません。また聞きのような感じで伝わってきたり、管理職がやんわりと伝えに来たりするのです。

 私は、この「困らせることが必要である」「見守るが大切である」というような理屈を説明することはできます。今もこうして書いているので。しかし、理解しようとしなければできません。しかも理解するのに時間がかかります。これまでの価値観を変容する必要があるからです。

 だから身内の理解が最大の難関になるのです。

 

 教頭先生がやってきて

「他の先生方にも分かるように、暮会で簡単でいいから説明してもらえる?」

と依頼されました。

「うーん、簡単には説明できません。」

「・・・でも、他の先生方が何をすればいいか分からないと言っているから、担任の考えを分かりやすくさ。」

「うーん、簡単には説明できないので、その先生方が自分が良いと思ったことをやってくれたら、私としてはそれでいいんですけどね。」

「・・・じゃあ、そういうことを簡単に説明してくれたらいいかな?」

「・・・・・・。・・・ですから、先生方が自分の良いと思ったことをやってくれたらいい理由も説明しなきゃいけないじゃないですか。それも理解が難しいんですよ。子ども達の様子を見てください。前よりも随分と進歩しているでしょう。それで納得できないのでしょうか。」

 

 だんだんめんどうになってきたので、私はとにかく「理解は難しいですよ」ということを押して、「とりあえず任せてもらえればなんとかします」という方向に持って行こうとしましたが、きっと「あなたには理解できない」が面白くないのでしょう。なかなか帰ってくれません。

 仕方がないので、教頭先生には説明しました。

「私は何もしていないように見えるでしょうけれども、何もしていないのではありません。何もしないということをしているのです。」

 そして、見守ることの大切さ、自己肯定感の育み方、経験の必要性、親を巻き込む効果、困って泣くことと感情の関係や怒りの本質などなど、1時間にわたって説明しました。私はなるべく分かりやすく、論理だって説明したんですが、教頭先生は

「・・・うーん、分かったような分からないような。」ですって。

 がーん。

 だから言ったでしょう。理解は難しいって。

 私としては、直接多く接する先生方、支援の方が理解していれば、とりあえず大丈夫なのです。説明もその都度できますし、協力いただくたびにお礼も言えますから。

 交流学級の担任、支援員さん、専科の先生とはコミュニケーションを随時取っているわけですから、そこから不満の声が出るということはありません。

 もっと外側の身内。普段あまり接していない先生方から批判というのは出てくるのです。共に活動している人からの批判は、それほど多くはありませんし、出たところで、すぐにコミュニケーションが取れるので、改善点としてすぐに採用するので問題在りません。

 

まとめ

 後半の文章はぐちっぽくなってしまいましたが、今回の記事で一番お伝えしたかったことは、「困り感」というものをきちんと理解して「活用することが大切である」ということです。困ることは悪いことではありませんし、別に良いことでもありません。

 困るという現象から何かを学べるというだけなのです。

 関係していそうな名言を3つ紹介しますね。

 

・教育は結構なものである。しかしいつも忘れてならないものは、知る価値のあるものは、すべて教えられないものであるということを。(オスカー・ワイルド)

・困れ。困らなければ何もできない。(本田宗一郎)

・外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。(サミュエル・スマイルズ)

 

 この困り感を与えるとき、絶対に必要なのは「見守る」ということと「待つ」ということ、そして「価値づけ、勇気づけ、励まし」などの基本技術になります。

 それら基本技術を支えている土台として、子どもへの絶対的信頼感、絶対的な愛情も必要です。基本技術だけでも効果はありますが、「信頼感」や「愛情」のような土台の上に基本技術を使うことで、困らせることの効果は出やすくなります。

「何もしないということをしている。」

 これは見た目には簡単そうに見えますが、本当はとてもとても難しいのです。

「本当に何もしていない。」

 これは見た目通り簡単ですよ。外側から見れば、この2つは同じに見えますが、子どもの変容を見れば一目瞭然ですから、よく見れば区別できます。