Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

教育界の働き改革を正しく理解する

 かなりの長文になってしまいましたので、教育に関係のない人は読まない方がいいです。時間がかかりますので・・・。真面目に教育に関する記事です。

 

「働き方改革」という言葉が随分普及しました。

 大変ありがいことです。これまでの労働者は働きすぎていたということが赤裸々になったおかげです。だいたい、ある改革が起こるためには大問題が必要なのです。

 働きすぎによる問題点に焦点があたり、社会全体が「そーだ、そーだ!」となってはじめて世論となり、行政が動き、社会に浸透していくわけです。

「人は仕事の為にあるのではなく、人の為に仕事がある。」という1つの側面にスポットが当たったと言えるでしょう。

 さて、今回の記事は、「働き方改革」はありがたい!という記事ではありません。ありがたいのだけれども、ちょっとよく考えて!という記事になります。

 

1 働き方改革が登場した理由

 随分前にさかのぼりますので、だいぶ忘れ去られようとしています。

 私の理解している範囲で、まずはその登場した背景を整理してみます。

 あくまで私の理解している範囲ですから、もっと違う流れもあるでしょうけれども、まあ、そこは勘弁してくださいね。

 まず、働きすぎているということから始めましょう。

「企業戦士」という言葉があったはずです。そして「終身雇用制」と「結婚制度」も絡み、「会社は家族」ということも関連しています。要は、戦後日本にまでさかのぼります。

 高度経済成長期が日本を復興させたという側面があるので、働き過ぎは賛美されていました。熱心に働く人は、みんないい人です。それは「豊かさ」というものを求めて頑張り続けることが圧倒的な善であり、人々も豊かな暮らしを目指してがんばれていたのです。双方にとってWin Winの関係ですから、それほど問題にはならなかった。日本全体が復興に向かっているという希望もあったでしょうから。

 次に、いつ怪しくなったということを理解しましょう。

 おそらくバブル崩壊でしょう。日本全体が不況に陥り、「派遣社員」という制度が拡充し(元々あったのですが、拡充したのです。)、「雇い止め」とか、「正規社員」と「非正規社員」の格差など、迷走しまくっている時期です(今も続いていますが・・・)。

「大量リストラ」という言葉もあり、これまで主流だった「終身雇用制」と「年功序列制度」に限界がやってきます。「年越し村」だっけな? 年越しをするのにどこかの神社みたいなところを開設して、食事の援助とか寝る場所の提供とかしているはずです。ニュースで見た記憶があります。

 このあたりで、労働者たちの不安感や不満が爆発します。大量リストラはリストラされた方も残った方も大変です。これまでよりもかなり少ない人数で、同じような仕事量をこなさなければならず、できなかったらリストラの恐怖が・・・みたいな感じかな~。

 つまり、残された人たちのさらなる過剰な仕事状態の発生です。

 企業倒産も相次ぎ、この時期の自殺者は年間3万人を越えていると記憶しています。交通事故死よりも多い。

 そんな中、私の記憶では2つの大きな事件が起こります。

 1つ目は、どこかの会社で、働き過ぎによる過労死。

 2つ目は、どこかのチェーン店での名ばかり管理職事件。

 働いた分だけきちんと賃金を支払っていれば、そこまで大きな事件にはならなかったはずなんですが、残業代をきちんと支払っていなかった。また、労働基準法に定める労働時間を無視しまくっていたということで大問題です。

 連日のように報道されまくっていました。「ブラック企業」という言葉も使われるようになりました。そして、教育界も相当「ブラックだ」と。ただし、最初の頃は不況でリストラや給料削減問題がはびこっていましたので、公務員がブラックだと言える状況ではありませんでしたが・・・。

 それからほどなくして登場したのが「働き方改革」という言葉です。

 まだまだ他の側面もありそうですが、おおざっぱに言うとこんな感じではないかなというのが私の解釈です。世の中に流布してきた情報だけを整理すると、こんな感じかなというぐらいですから、間違っていたらごめんなさい。

 ただ、私がここでお伝えしたいのは、詳しい「いきさつ」ではないのです。お伝えしたいことは、「働き方改革」というのは、突然出てきたありがたいものではないということです。どこか寂しく悲しい物語を経て、ようやく登場してくれたありがたいものだということです。

 

2 教育界の働き方改革の現状

 民間企業と公務員の「働き方改革」、あるいは公務員と教職員の「働き方改革」を別に考えた方がいいのですが、どうしてそうなったのかについては繋がっているので、まずは民間企業について見ていきます。

 先ほども述べたように、働かせ過ぎた上に、給与をきちんと支払ってこなかったということが大問題なのです。「労働力の不当な搾取状態がけしからん!」ということですから、企業ができることは2つです。

 1つ目は、きちんと残業代や各種手当てを支払うこと。

 2つ目は、労使交渉をしっかりして、双方の合意の元、会社を運営すること。

 すると、残業されればされるほど、給与をしっかり支払う必要があるので、なるべく残業させない方がよいという考えが起こります。それで「仕事の無駄を省こう。」「効率化が大切」「合理化だ!」「統合だ!」という具合に変化します。

 ちなみに、公務員においてもこの流れは起こっています。平成の市町村合併などの動きは支出をなるべく減らすための方策で、理論上は良さそうだったのですが、様々なところで公共サービスの低下を招いてしまいました。

 要は、仕事そのものの中身をもう一度しっかり吟味しましょうという流れです。なるべく合理化、効率化していきましょう。労働者の権利や生活を保障していきましょうというのが「働き方改革」になります。

 

 さて、これを教職員にあてはめて考えてみます。

 すると、民間ではできることができないという事実が浮上します。

 1つ目の残業手当。これは教職員は一律4パーセントで手を打っているので、いくら残業しても残業代は発生しません。「定額働かせ放題」と言われています。

 2つ目の労使交渉。これもあるにはあるのですが、民間企業ほど激しくすることはできず、組合活動として行う程度です。

 さらに公務員は副業が基本的に禁止されています。民間企業でも禁止されているところはあるかもしれませんが、公務員は法令違反です。

 ということで、残された道は「業務を減らす」ということだけです。

 残業代は出せない。給与も法令で定められている。しかし現状では労働時間が労働基準法に違反しまくっている実態がある教職員を抱えている行政は、大きな声で「労働基準法に違反したら駄目ですよ!」とは言えません。自分たちの管轄する職場環境ができていないのに、民間企業に「こら!」と言える立場にないからです。

 

 そこで、現在教育現場では次のようなことが行われています。

 一番大きいのは業務の精選です。多忙を極める教師の仕事の内容を見直しましょうということ。今回の記事の最重要テーマです。「仕事を減らしましょう」ではないのです。「仕事を精選しましょう」なのです。何が大切な仕事で、何が大切ではない仕事なのかを、もう一度見直しましょうねという、ありがたい方針です。

 ありがたいのですが、これが誤用、誤認されているということを少し考えましょうというのが、ようやく出てきた私の主張になります。

 

3 教育界の働き方改革の正しい理解

 先ほど述べたように、民間企業と教育界の「働き方改革」は違います。

 性質が違うのです。

 教育界には営利というものがなく、人を育てるのが仕事で、その効果はすぐには出てこない。そして、目に見えることよりも目には見えないことの方がたくさんあります。ですから、どのように「業務を精選するのか」ということが問われることになります。「無駄をなくして効率よく」が教育界には合わないのです。教育には一見すれば無駄だと思われるようなことが大切だという場合が多いからです。

 教育界における「働き方改革」というのは、残業を減らすことを目指していますが、そのために「業務をただ減らす」のではなく「なくても子どものためには支障ないこと」は廃止し、「子どものために必須である業務」に力を注ぎましょうということで「精選」なのです。

 だから、いらない仕事を減らした分、その時間を多いに意義のあることに使いましょう。それが子どものためにも教師のためにも良いという理論です。

 以上を踏まえて、私なりの私見を述べてみます。

 私の見た限りでは「働き方改革」という言葉は誤用されています。

 どうも「効率化」ということに目を向けすぎている節があります。

 そして、無駄のように思えるけれども、とても重要なこともなくしてしまっている。本当になくした方が良いことはなくさないで、なくしてはいけないことをなくしている。そんな気がしてならないのです。

 なくしてはいけないと私が考えている具体的なことを紹介します。

 

①家庭訪問

 家まで行くけど、自宅の場所だけ確認して玄関先だけで失礼する。ということや、家庭訪問自体をなくして学校面談期間にするということもあります。地域性もあるので、一概には言えませんが、私は自宅に訪問するというのはとても大切だと考えています。なぜなら、子どもが住んでいる家の状態を把握することが、子どもの理解にとって大切だからです。家や部屋というのは、本当に多くの事を物語っています。場所がどこにあるのかも大切ですが、どんな空間で過ごしているのかも児童理解にとっては不可欠なはずなのです。

 

②行事の精選

 これもなくしてはいけません。運動会、学芸会、遠足、マラソン記録会など、子ども達が楽しみにしていて、保護者も応援を楽しみにしているようなものは日本の教育にとっては必須です。現状としては、なくしてはいませんが、かなり手軽に、時間をなるべくかけずにという流れが起きています。これ、無駄なんですか? 子ども達は行事を通して大きく成長するのです。また、その成長している姿を親が見て、学校への信頼を確かなものにしますし、我が子の活躍を褒める機会にもなるのです。

 

③通知表

 これはかなり楽になりました。観点別と単元別というのがあって、ほとんどの学校が「観点別」になりました。これについては、これだけで記事を書きましたので、今回は割愛します。

www.nayunayu.com

④クラブや遠足など、些細だけど・・・。

 私が子どもの頃は、春の遠足と秋の遠足の2回ありました。

 今は1年に一回が通常です。

 4年生以上が異学年で交流するクラブの時数も減らされています。

 子ども達が楽しいと感じるような活動は、ことごとく精選?の対象になりつつあります。これが危険なのです。子ども達の楽しい時間を奪って、何をしているのでしょうか。一体全体、どこに力を注いでいるのでしょうか。

 

4 本当に精選するべきこと・・・

 教師の勤務時間は、一日7時間45分です。朝早くから業務を開始するので、だいたい17時ぐらいで勤務時間は終了し、それ以降は残業ということになります。全ての労働者に採用されている労働基準法ではそうなります。

 ついでに、中学校や高校においては、部活動はすべて時間外活動ということになりますが、すべて教職員の善意に頼りきっています。土日、祝日も大会などで出勤しますが、おおよそボランティアです。

 小学校の場合、一日のほぼ全てが授業で終わります。高学年だと6時間授業で、授業終わりが15時すぎぐらい。残された時間は2時間程度ですが、実はお昼休憩はないので(給食指導のため)、実質は1時間と少しです。

 この時間に、会議やら打ち合わせやら、連絡書類の作成やら、テストの採点やら、授業の準備やら、ありとあらゆることが入り込みます。これが通常業務になります。この通常業務に季節物が入ります。それが行事であり評価であり、家庭訪問みたいなもの。そのための「精選する対象」として目が行くのは自然なことでしょう。

 しかし先ほども述べたように、子ども達の教育にとって、これら季節物は必要なのです。だから、軽減するどころか、ここにこそ力を注ぐ方が良いというのが私の考えになります。

 では、その場合、本当に精選したほうが良いのは何かという問題が残ります。各種会議、打ち合わせの時間、必要のない書類の簡略化などは現在進行しています。これは一見良さそうですが、時と場合によります。会議の時間は短ければ嬉しいでしょうけれども、重要な案件に関しての会議は時間がかかります。重要な案件まで一色単にして短くしてはいけないのです。

 でも、それよりももっと本質的なこと。

 それは、私の考えでは「授業時数そのもの」です。学校は授業をする場所なので、意外に思われるかもしれませんが、あえてそこです。

 授業時数には「標準時数」というものが決められています。1年間で国語は何時間、算数は何時間という具合に決められており、それをクリアしないと法律違反になります。具体的には「学習指導要領」に明記されています。小学校の高学年だと、だいたい年間1000時間です。そのため、毎日6時間授業、たまに5時間授業。放課後の時間を考えれば、クラブを減らしましょう、行事にかける時間を減らしましょうとなります。

 私が教師になったころは、それでもなんとかやりくりしていたのです。学芸会の練習なんだけど、音楽をやっているから音楽でカウントしようとか、修学旅行の準備なんだけど、総合的な学習の時間でカウントしようとか。

 ところが、なんだか厳しくなってきて、音楽は音楽、総合は総合の目的があるから、流用してはいけない!となってきたのです。それで、従来通りやっていたのでは、到底消化できないということで、精選という名のもと、各種行事は短縮されています。そのかわり、授業としての各教科の時間が確立。要は、もっともっと勉強させよ!ということです。

「ゆとり教育」というのが一時主流になったんですが、PISAの調査(先進国の学力調査)において、日本のランキングが下がってしまったり、どうも世の中の子ども達が勉強しなくなってきたということで、学力重視に舵を取り直しました。これが今も続いています。つまり「標準時数が増えた」のです。

 でもね、勉強って、子どもたちが成長するためにあるのです。そして行事などはきちんとやれば、通常の教科では達成できないような大きな成長が起こるのです。しかも楽しいし、嬉しいし、勉強では起こらない大きな学びが生じるのです。

 あえて辛辣に率直に私の意見を言うのなら、「総合的な学習の時間」と「外国語活動」を減らして良いでしょう。この2つは、教育の目玉として導入されましたが、そもそもはなかったもので、私の現場感覚では、なくなっても大丈夫かな?。

 すると、年間で100時間は浮きます。もっと言うのなら、学習内容そのものを精選して、全ての教科の時数を少しずつ減らして、もう100時間ぐらい精選する。学習内容の精選による授業時数の精選です。そうして浮いた200時間を行事に当てたり、放課後の時間に当てたり、子ども達が伸び伸びと活動出来る時間に当てる。

 教育にはね、ゆとりが必要なんです。無駄も必要で、勉強だけが学びではないのです。ありとあらゆる経験が学びなのです。経験が最も大切にされるべき時期であり、もっともっと自然と戯れる活動、友達同士で触れ合うような活動、みんなで1つの物を築きあげるような活動が大切なのです。

 それが「心の教育」ということではないでしょうか。

 

 めちゃめちゃ長い文になってしまいました。

 教師でない人にとっては、何のおもしろみもない内容ですが、一応教育ブログなので、教育界がもっと子ども達の為に何が必要なのかを考えるきっかけになればいいなあと思って書きました。

 あくまで私見の領域を出ない内容でもありますので、考えるきっかけになってくれたら嬉しいです。

 長くておもしろみのない内容を、最後まで読んでいただいた人に、感謝しかありません。ありがとうございました。