誰に話すのかによって、話す内容というものは変える必要があります。
人は社会的な生き物で、人間関係がつきものですから、役に立つと思います。
話の聞き方で人が分かる
教師という職業は、子ども達に話を聞かせることが日常的にあります。
何かを教えるとき、何かを指示するとき、考えさせるときですら、言葉という道具を媒介として授業が成り立つからです。
職業柄、様々な子ども達と接してきました。
最近は、話を聞かせることが難しくなってきたように感じています。
まあ、それはさておき、話の聞き方です。
まず、三流の状態。完全に眠っています。起きているけど寝ている。
それが「話を聞かない」です。
正確には「話を聞けない」ですが、何も心に響かないという状態。伝えても理解しようとしない場合、会話は徒労になるでしょう。
この場合、話し手は話すことをあきらめなくてはいけません。何を言っても無駄だからです。やるべき事は「話を聞ける状態にする」という1点のみです。
そのために必要なことは「話を聞く」という逆のことをする必要があります。話を聞いてもらった人だけが、話を聞くことができるからです。
これは子どもであっても、大人であっても同じです。話を聞いているフリをしているけれど、全く聞いていないという状態がよくあります。本人は聞いていると思っているけれども、全然入っていかない状態。
でもまあ、この状態、聞こうとしているのなら二流に近づきます。
次に二流の状態。素直に聞きます。「人の話を聞く」状態です。
この場合、話し手は油断します。「話を聞いているな。」「話を聞いているから分かっているだろう。」と。
学校では、低学年でこの状態がよくあります。説明した後に「じゃあ、やってみよう!」と活動に入ったら、「せんせー、次何するんですかー。」となり、「えーー! 3秒前に言ったでしょ!」みたいな感じ。
この場合、話し手は聞き手にしゃべらせることが必要です。自分ばかり話をしていないで、相手にもしゃべらせるのです。すると、どこを理解して、何にひっかかっていて、どう自分なりの解釈をもったかということが分かります。
今、教育界で表現することやアウトプットさせることを重視しているのも、この辺りのことが、一部繋がっています。一斉授業で話を聞かせるだけでは、自分のものにならないということが分かってきたのです。
二流という表現を嫌がらないでくださいね。
多くの人がここにいます。多いということが一般的な普通ということになりますから、二流であれば十分なのです。野球界の野村監督が「超二流が野球には必要だ。」みたいなことをテレビ番組で言っていました。
さて、多くの人がここにいるということは、多くの場合、相手にしゃべらせることが必要だと言うことにもなります。上手な話しては上手な聞き手にもなれますから、相手からどんどん引き出してゆけば、徐々に一流へと向かっていきます。
一流の人は、「人の話を聞いて実行する」状態です。というよりも、話を聞いたらまずはやってみるということが習性となっている状態です。
何でも疑いますが、その根拠は自分で試してみることを通しますから、多くの知識は自分自身の智慧と昇華してゆきます。
そういう生活を何年も積み重ねているため、経験値も他を圧倒し、それで一流と呼ばれるのです。ちなみに、二流の人は実行はしないので、せっかく得た知識も、使わないという単純な理由、あるいは簡単に教えられただけという入手獲得の問題から、あっという間に忘れてくれます。
聞き手が一流の人の場合は、共に歩むことがベストです。一流の人は、話し手からどんどん吸収しますが、話し手も逆に吸収できます。双方が相乗効果として成り立つ状態です。ぜひ、末永くお付き合いしていくことをお勧めします。
おそらく、会話をしていても楽しい相手となるでしょう。もう、これで今回の記事は終わってもいいのですが、さらにその上についても書いておきますね。
一流のその上、超一流の人がいます。
それは「人の話を聞いて工夫する」という状態です。
「1を聞いて10を知る」だけでなく「自分でアレンジする」「他と連動させる」「組み合わせて新たな可能性をさぐる」ために「実行しまくる」というような状態の人。それを人は「天才」と呼んだり、「変人」と呼んだりします。
多くの人が、二流に留まり、その中の一部が一流の聞ける人。そして一流の中のごく一部の人が「超一流の状態」なので、「話の聞き方が超一流の人」は稀な存在なのです。多くの人の理解を超えているので、変人扱いをされたりします。言うことを聞かないようにみえるのです。聞かないのではなくて、聞いた話から既に離れて自分なりの改良を加えているだけなのです。
そんな人を弟子にもつと、師匠はあっという間に超えられます。それを喜べる師匠なら良いでしょうが、師匠としてのエゴがすごければ「かわいくない弟子」ということも起こります。・・・なんだか、切ないですけど。
イラストは超一流の人たちです。
伸び伸び遊んでいる子ども達。実は超一流と言わざるを得ません。
「子どもは遊びの天才」と呼ばれるのは、話の聞き方が超一流だからです。
どんどん自分で工夫して、遊びを発見していきます。素直に育っていれば、危ないことや軽いアドバイスなんかもすぐに吸収します。
人は誰でも超一流で生まれてくるのです。
今回の記事で一番お伝えしたいテーマです。
生まれたときは天才で、幼少期は秀才で、小学校は優秀。中学生から高校生で一般的な人になり、大人になる頃には凡人になります。
なぜでしょうか。
それは、周りの大人が邪魔ばかりするからです。
邪魔しているつもりはなくても、邪魔しています。
それは仕方のないことなので、否定するつもりはありません。「そうなっているよ」ということだけです。そして、そもそも超一流として生まれているのだから、その状態に戻ることも可能だということが一番伝えたいことです。
そのために必要なことをまとめます。
三流の状態ならば、「話を聞ける」状態へ導くこと。
二流の状態ならば、「話をさせる」こと。
一流ならば、たいしてやることはありませんが「共に学ぶ」こと。
そして超一流ならば、逆に「話をしてもらう」ことです。
人に話を聞かせるとき、良い話が誰にとっても良い話ということはありません。それは聞き手の状態によるからです。話す相手によって、話し手が話す内容というのは変わります。一見矛盾しているようにも見えても、聞き手の状態によって変えているだけなので、実は矛盾していないということが起こります。
仕事をがんばりすぎているのなら、「そんなにがんばらなくてもよい」と伝えるでしょうし、仕事を怠けまくっているのなら「もっとがんばらないといけない」と伝えるでしょう。
同じ人物が、ある人には「がんばるな」と言い、ある人には「がんばれ」と言う。がんばるのが良いのか悪いのかという観点から言えば矛盾していますが、「ほどよく頑張るんだよ」という視点から見れば一切矛盾していないのです。
右に振れているのなら左に、左に振れているのなら右に戻るように話をしているだけですから。そして、ほとんどの人が二流ということは、ほとんどの人が実践しないということを言っているわけですから、実践できそうなことから話をするということが必要になります。
だから「今の話を聞いて、なんか自分でできそうなことあった?」と聞いてみることが有効になります。自分で選んだことはやりますし、話を聞いてもらった感も加わって元気にもなり、繰り返すことによって一流へと戻っていくはずです。
さて、あなたの周りの人たちは、どの状態でしょうか。そして、自分自身はどうでしょうか。
私は・・・・・・。うっ。
偉そうなことを書いている場合じゃないかも・・・。反省しなくちゃ!
※誤解のないように追記。
一流とか二流という表現の定義はあいまいです。分かりやすく解説するために使っているだけであって、人としての価値は話の聞き方だけで判断できるものではありませんし、人は誰でも価値ある存在です。あくまで、話を聞くときの状態が違うということであり、その状態に合わせて話をすることが「話を聞かせたい」なら、相手の状態の理解が必要だということです。