「頭が良くなりたい」と勉強に熱心な子どもほどよく言います。あるいは「私は頭が悪いから」と自己否定する子もいます。これは学校の勉強ができるかどうか、そしてたくさん覚えているかということを言っているのでしょうが、そもそも「頭がいい」とか「頭が悪い」とは、一体何なのでしょうか。
この記事で掘り下げて「そもそも論」を展開します。
読み終えたら、「うーん、頭がいいって、なんだ?」と深く考えられるようになるかもしれません。そういうお話です。
頭がいいって何?
「勉強をすると頭が良くなる」と言いますが、その際の「頭が良い」は何をさしているのでしょうか。
プラトンの弟子で賢人であるソクラテスは「無知の知」ということで有名です。
ソクラテスは、多くの有力者達に問答をし続け、全てを知っていると自負する人たちを見て「自分は知らないということを知っているという点に置いて、有力者達よりも知っている」ことを解明したそうです。
その後、有力者達に迫害されています。
頭が良くなったらどうなるの?
という疑問から考えてみます。
「学力の高い学校に進学することができるよ」と言われるかもしれません。
でもそれでまた勉強して、さらに頭が良くなったらどうなるの?という疑問が。
「就職するときに良い会社に入社できるようになるよ」と言われるかもしれません。
でも、良い会社って何?という疑問が。
「お給料がいっぱいもらえて、やりがいがあって、みんなの役に立てて、豊かな生活を送れるような会社だよ」と言われるかもしれません。
では、頭がいいとお給料がいっぱいもらえて幸せなのか・・・
では、頭がいいとやりがいを見つけられるのか・・・
では、頭がいいとみんなの役に立てるのか・・・
では、頭がいいと豊かな生活を送ることができるのか・・・
という具合に、次から次へと疑問が出てきます。
ちなみに、ここで言っている「頭が良い」を「勉強ができる」という定義で考えたらということです。勉強ができる=上記の内容の十分条件なのか?ということです。
際限なく出てくるこのような疑問に答えるには、やはり頭が良くなくては答えられないでしょうけれども、ここで次の疑問が同時に出てきます。
そもそも「頭が良い」とか「頭が悪い」とは何なのか
という2つ目の疑問です。
何を示して「頭が良い」というのか・・。
勉強ができる=頭がいいということなのか・・。
良いとか悪いとか言うのは何と比べてそう言っているのか・・。
ここでもたくさんの疑問が派生し、波及してしまいます。
ここまでを簡単に私の伝えたいことをまとめると、
「頭が良くなりたい」という願望は、ひどく曖昧であるということです。
頭が良いか悪いかなんて単純には言えない
では、なぜ私がこのよう主張をするのかという根拠を説明します。
1 頭が良いかどうかのベクトルは1つではない
「頭がいい」と言うときに気をつけなくてはならないことの1つ目は、そのよさを発揮するにはまずは様々な分野があるということです。
例えば、商売に関することについて「頭がいい」というのことと、健康に関することについて「頭がいい」というのでは違うということです。ちょうど、スポーツで野球が上手だと言うのと、サッカーが上手と言うのでは違うようにです。その2つを比べて運動神経は語れないでしょう。
ただし、運動神経と言った場合は「どの運動をやらせても」というイメージがあるかもしれまん。しかし、得意分野というのがありますので、ある程度の習得率の高さをもって運動神経が良いとは言えるかもしれませんが、体操選手のもつ運動神経のよさと野球選手の運動神経のよさは必ずしも一致しません。
2 何に対しての頭のよさなのか
たくさんの知識を覚えることに対してなら、覚えた人が頭が良いということになりますし、実践に対してなら応用力が頭の良さとなります。
以上の1と2を組み合わせただけでも「頭の良さ」というベクトルは多岐にわたっていると理解できるはずです。
ところが、これは対象物が発生したときに発揮される頭の良さであって、つまりは目に見える頭のよさです。より本質的な部分は常に見えない世界の話になるので、より深く掘り下げて考えていく必要があります。
3 本質的な頭の良さは
小中学生の頃ならば、勉強が素早く分かるといことになります。
では「わかる」とは何かというと、教えられたことの中にある規則性に素早く気付き、その規則に従って問題を解決できる能力です。
例えば、漢字の習得では、漢字を構成している部首と意味、書き順などの規則性に気付いて覚える。
算数の習熟では、公式という規則性に気付き、その規則に従って問題を解いていく。
社会であれば、グラフや図、歴史によって証明されている規則を理解し、知識同士を関連づけられる力。
つまり、的確に知識を詰め込む(机の引き出しに知識という内容をため込む)と同時に、必要に応じて必要な知識を取り出して的確に判断していける力です。これは、ある限られた場面での問題解決をする力を示しており、問題を的確に判断できる能力になります。
しかし、もう一つの頭の良さが存在しているのです。
いくら学校での成績が良くても、太刀打ちできない頭の良さです。
それは、ある限られた場面ではなく、限られていない場面で問題を的確に解決する能力です。
これは学校の成績とはあまり関係がなく、より社会に準じた生きた智慧の領域になります。
つまり、自分の生活圏という幅の広い領域から本質を見つけ出し、問題解決のために必要な新たな規則性に気付いていく能力です。
まとめ
結局のところ、そのどちらが優れているということではありません。
場面が限定的ならば、学校での「頭のよさ」が本領を発揮しますし、限定されない場面では社会での「頭のよさ」が本領を発揮するということです。
その両方を兼ね備えた人が、「本当に頭がいい人」ということになりそうです。
どちらか片一方だけだと、どうしても限界が生じます。
つまり、お互いは別々のものではなく、相互依存している状態であるとも言えそうです。
学校での勉強も大切、社会での勉強も大切、そしてどちらも自分で判断できるための大切な能力であるのだから、それはつまり「どう生きるのか」という人間の本質的な問題に直結する力とも言えそうです。
だから、頭が悪いというのは、その両方を失っている人です。
学校での知識がなく、社会からも学ばない。
それは結局、自分の頭で考えられない。
つまりは、人の言うことに盲信し追従する信者になるか、批判だけは一人前に行う破壊者になるか、全く参加できない無気力者になるか、いずれにせよ、自分の人生を自分で歩むことのできない人のことを言うのでしょう。
そして私は、本質的に「頭が悪い人」はいないという考えです。
勉強ができなくたって、それで「頭が悪い」とはならない。
誰だって、自分で考えることができるからです。
ソクラテスが頭がいいのは、自分でたくさん考えていたからだと思いますよ。その姿を見た若者達に強い影響を与えはしましたが、無知と無自覚の人々により迫害されたと、ネットでググってみたら書いてありました。
※きっと難しいお話なので、マンガで読んでみましょう。
ちなみに、私も全く知りませんが・・・。少し興味がわいてます。