1年生の特別支援の男の子が、とにかくやたらとふらふら立ち歩き、お友達にちょっかいをかけたり、奇声を出してみたり、わがままし放題です。担任教師が止めると、感情を暴走させて、ふてくされて、動かなくなるということもあります。
体育の授業では、これを一切認めていません。
私は特別支援の経験もありますし、これまで多くの子ども達に向き合ってきました。
その経験から導き出された結論は、障害で仕方ないのか、ただのわがままなのかを見極めることが大切であるということです。
そして、多くの教師達は、「障害だから仕方ない」みたいになっています。
(他の学校は違うことを願っていますが、私の周りではそうでした。)
これは、特別支援教育にかかわらず、通常学級でも同じようなことが起きています。
私は、その男の子のちょろちょろの大半を「わがままである」と見極め、善意の強制によって、行動をきちんとさせていました。
(ちなみに、わがままが悪いってことでもありません。仕方なくそうなっている、もしくは、他の方法を知らない、または、きちんとすることは心地よいということを経験していないだけです。)
すると、私の授業ではちょろちょろしないのに、学級に戻ると、またちょろちょろするという現象が起きます。でも、私が姿を見せると、少し慌てて自分の席に戻ります。
ある日、その男のは気を抜いていて、あまりにもちょろちょろしているので、いつもより厳しく言葉を添えてみました。(普段は静かに指示を出すだけですが)。
すると、「ちぇっ!」ととても不快そうな表情をして舌打ちを私に聞こえるようにします。まあ、面白くはないのでしょうね。でも、これを見逃すのは、その子の為になりません。これを見逃すのは、チャンスを逃すと同意義です。
「どうした? なにか、おもしろくないんだね。」
男の子はふてくされたまま横を向きます。それで、近くまで寄って目の前に座り、
「先生を見なさい」
と、私の方を向くまで一歩も引きません。
「舌打ちしたんだから、もう、仕方ないんだよ。そして、先生がここまで来たのだから、先生があきらめるということもない。こっちを向くまでは絶対に終わらないから」
と伝えます。それで、男の子がこちらを向いてから、静かに伝えます。
「ダメなことはダメだからね。先生は君ができるから言っているのだよ。自分がやりたいことだけをやるのでは、君のためにはならないからね。」
みたいなことを、目と目を向き合わせ、真剣に伝えます。
そうして、その後の授業はスムーズに進みますが、男の子は私という先生を嫌いになったようです。
先生は、子どもに嫌われてもかまわないのです。
その子のためになればいいだけですから。
そして、愛のある叱りで、本当に嫌いになるということはないというのも知っていますから。その理論については、またの機会にします。
さて、1数週間後ぐらいに雪が降り、グラウンドでのスキー授業が始まりました。
1年生は初めてのスキーですから、生まれたての子羊のようにモゾモゾ動いています。教えて、やってみせて、やらせて、褒めてを繰り返していましたら、だんだん上達していきます。
ふと気がつくと、例の男の子が、私の後を一生懸命についてくるのです。
私のことを嫌っているとの情報でしたが、もう、懸命についてきます。
本当に嫌いならば離れますが、自分の存在をアピールするように、熱心についてくるのです。それで、
「君は、今日、とてもよくがんばれたね。」と軽く褒めておきました。
放課後、男の子の担任(特別支援)から、その後の様子を教えてもらいました。
「今日、先生に褒められた! 僕、めっちゃ上手だって!」
と、今までに見たこともないくらい元気で、その後の授業の集中も素晴らしかったということでした。
その子のことを本当に思って、必要に応じて、心から行うのであれば、「叱る」は愛です。ですから「叱られる」というのは嬉しいのです。
※愛のない叱りは嬉しくないですけどね。
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