(2019.12.14の記事を加筆・修正 2020.4.28)
※何かを選ぶということは、結果も選んでいるということです。
1 自分で「やらないこと」を選んでいる
ある日の5年生の体育の授業でのことです。
(私は全学年の体育を担当していました)
準備運動をしていたら、やっていない女の子グループを発見しました。
体調が悪いという風でもないので、あきらかに自分でやらないことを選んでいます。
それで、途中で準備運動を止めて全員集合です。
私は、4名の女の子の名前を呼び、
「君たちはどうして準備運動をしないのか」と訊ねました。
女の子達は全員が一斉に下を向いて、誰も答えません。
私はなおもしつこく訊ねます。
「聞いているのだから答えなさい」と。
それでも誰も答えません。
仕方ないので、最終通告です。
「あのね、先生が聞いたんだから、先生は一歩も引くつもりはない。君たちは自分で準備運動をしないという選択をしたんだよ。それはかまわない。でも、その結果、君たちは先生に理由を聞かれるという結果が起こる。世の中はそういう風になっているのだから、仕方ないだろう。」
すると、4名の女の子達は、それぞれが理解に苦しむ理由を述べました。
理解に苦しむというのは、本当の理由ではないからです。
その場しのぎの理由です。「お腹が痛かった」みたいな感じだったかなぁ~。
中には「やってました」という子もいましたが、私がばっちり見ているのですから、通用しません。「準備運動をしているのに、そんなチマチマした動きではやっていないのと同じである」と突き返すだけです。
別に叱りつけているわけではないのですが、私が一歩も引かないという姿勢を示しているので、場の空気は締まっています。
「分かりました。そのようなくだらない理由で準備運動をしないということを選択したんですね。この後はどうしますか?」と聞きました。
「きちんとやります」というので、
「では、そのようにやってください。」と話が終わりましたが、ついでです。
2 教えるチャンスを逃さないこと
教育というのは、教えるタイミングがあります。
一番効果が高いのは、その時なのです。
後から「あのときは・・・」では、教えるチャンスを逃していることになります。
実は、当該学年は少し気持ちが緩んでいる状態でした。もちろん、本当はきちんとしたいのです。でも、なんだか気が緩んでしまっている。
だから、準備運動に全員が積極的に参加していれば、それはそれでいいのでしょうけれども、しない子がいて、次のような話を子ども達にできるのなら、それもいいのかな?と思うわけです。
「今、4人だけに注意をしたが、本当はそうではないのだよ。集合の仕方、話の聞き方、授業の受け方など、今日の君たちは気持ちがふわふわしている。
体育はけがが最も多い教科であり、先生はなるべくけがをしないように安全面の配慮をしている。だけど、ふざけている人はけがをする。ふざける事を選んだのなら仕方ないだろう。
また、先生は一生懸命教えるが、それは先生の問題であって、君たちが上手になるかどうかは君たちが自分で選ぶということだよ。先生の言うことをしっかり聞いて一生懸命やれば、みんな上達するように先生は考えて指導している。
でも、上手になるのかならないのかは君たちが自分で選ぶのだから、先生は関与しない。授業を受けないでも、実は先生としてはかまわない。それは、授業を受けないということを選んだのだから、当然上達しないという結果も一緒に選んだということだ。
それによって、先生が困るということは一切起こらない。先生の問題は良い授業をすることだからね。さあ、授業を始めましょう。」
これを冷たいと思わないでください。
責任の所在をきちんとあきらかにするというのは、将来、自分の事は自分で責任を取ろうとする子に育つのですから、必ず役立つのです。
その後の授業はみんなきびきびと動いて素晴らしい1時間になりました。
3 最後に・・・
これは担任をしている人なら、誰でも経験することですが、
時々、子ども達ってだれちゃうのです。気が緩んでいるといいますか・・。
そして、自分たちでは軌道修正出来ないときもあるのです。
そんな時、感情に身を任せて怒るのではなく、教師としてのしっかりとした愛情に支えられた「叱り」が必要なのです。
「そんなんじゃだめだぞ!」と先生が力強く言うことで
「先生、すみませんでした!」という風になって、集団としての統率が一気に高まり、授業が終わると、清々しい空気が流れる
子ども達は、「授業を一生懸命受ける」ということを選んだので、「上達」と「清々しい汗」と「自分たちはきちんと出来たという充実感」という結果も一緒に選んだのでした。
よかったね!
- 価格: 1980 円
- 楽天で詳細を見る
※加藤諦三さんの本はお勧めです。