私はバイクに乗ります。だから、バイク乗りたちがコンビニや道の駅に集団で居るところを見かけると、ついつい見てしまいます。そのバイク集団は、大抵、おじさんです。見た感じでは50代~60代のおじさまたちです。そのおじさまたちは、ハードな若々しい服装です。ヘルメットをかぶってしまえば、若者にも見えます(ただ、体型はは完全におじさんですが)。
そのおじさまたちの目が、キラキラと輝いているのです。何を話しているのかは聞き取れませんが、どうしようもなく少年たちの集まりに見えてしまいます。
男という生きものは、いくつになっても少年の心を忘れていないのです。童心に還るとでも言いましょうか、歳も仕事も立場も、何もかも忘れて、ただ少年のように楽しんでいる姿を、私は美しいと感じるのです。
少年に還る
私はバイクに乗ります。私も44歳ですから、立派なおじさんなのでしょうけれども、バイクに乗っている時は、20代の頃の私とちっとも感覚は変わっていません。それどころか、気分は小学生が自転車で遊んでいるのと、さほど変わらないと言った方が正確かもしれません。
友達と一緒に行くツーリングになれば、その傾向はいっそう強くなります。
つまり、少年の心に還っているのです。
コンビニで弁当を買って、地べたに座って食べる。
休憩中は、たわいもない会話をする。
目的地は、ただの目的地であって、走ることそのものに意味がある。
雨が降って、べちゃべちゃになっても走る。
少しはかっこつけて走ってみる。
車に乗ったらやらないことだらけです。でも、それが楽しい。
高校時代の友人と集まれば、全員おじさんなのに、全員少年に戻ります。
会社では立場のある人になっている年齢ですが、全く関係ないし、みんなも気にせず、高校時代の感覚に戻って、ただ楽しむ。
ある友人が、夜一緒に歩いていると、突然「木」を蹴りました。何をしているのかと聞くと、蝉かクワガタが落ちてくるから蹴っていたと言います。そして落ちてきた蟬を捕まえて喜んでいる。
ある友人は、綺麗な川を見ていたら「なつかし~な~」と言って泳ぐ。当然、服はベチャ濡れだけど、嬉しそう。
もう立派な大人が、少年のようなことをやるとき、エネルギーが溢れ、みんな生き生きしているのです。つまりは、少年のような心が自然なる心の状態であるということでしょう。会社で立派な姿でいることは不自然だから疲れる。そういうことなんだと感じさせられるのです。
還る場所を作る
少し真面目な話をします。
少年に還るというのは、素晴らしいことであるという最初のお話でしたが、還るということは、かつてはそこにいたということです。
それは、子ども時代に過ごした場所です。少年時代に過ごした場所があったから還れるのです。その場所は子どもらしい場所。つまり、友達と遊んだ心の記憶、自然と戯れた経験、くだらないことに夢中になった時間など、おおよそ大人なら「くだらない」と片づけられてしまいそうなことです。
でもそれは、形を変えて存在し続けています。
友達と自転車で遊んだことは、バイクに変わる。
友達と川で遊んだことは、キャンプに変わる。
友達と探険したことは、登山に変わる。
子ども時代に楽しんだことは、形を変えて大人社会でも楽しんでいます。
では、子ども時代に遊ばないで勉強ばかりしていたらどうでしょう。
還る場所は、机の前ということになりませんか?
その机の前という場所で、生き生きとなるでしょうか?
少年時代には少年時代にしかできないことがあります。
つまりは結局、少年の心に還れる場所を持っている人の方が、最終的には人生を豊かに過ごせるのではないかということです。その豊かさは物質的な豊かさではなく、心の豊かさです。
まあ、どちらに寄り過ぎてもバランスが悪いでしょうから、「よく学び、よく遊ぶ。」状態が望ましいのでしょう。
ただ、最近は「よく学び、遊ばないで、また学ぶ」という状態なのか、「よく学び、残った時間はゲームをする」なのか、「無理矢理学ばされて、遊ぶ元気がないからスマホをいじる」なのか、人によって様々でしょうけど、「遊び」というのを軽視しているようには感じています。
「子どもにとっての大切な仕事は「遊び」である」ということを何かの本で読んだことがありますが、本当にその通りだと共感しています。
だから、どうかお願いです。
勉強もいいのですけれども、遊びというものも同じくらい大切だと、周りの大人達は認識してください。ただ、その遊びはゲームやスマホではありません。ユーチューブでもありません。友達や仲間とリアルに触れ合い、自然とも触れ合うような遊びです。
触れ合うことで、人は心を耕します。
その心を耕した場所が、少年になって還る場所です。
さあ、遊びましょう。