親が子どもの心配をするのは当然のことで、子どもが何歳になっても親は心配するものです。これを否定するつもりは毛頭ありません。随分前に「心配」についての記事を書きましたが、心配は動機によって変わるのです。
その動機とは「愛」から生まれし心配なのか、「不安」から生まれし心配なのかということで、この2つを分けて考えた方が、あなたの大切な人を本当に大切にすることができるでしょう。
真実を書くので、受け入れられない人には、大変面白くない記事になりますが、あえて書くことにします。もし、心配をしている自分が好きなのだけれども、なかなかうまくいかない人にとっては役立つかもしれませんから。
母子関係における心配
子どもがまだ幼い頃、親はさまざまな心配をします。それは主に命に関わることです。道路に飛び出さないだろうかとか、転んで怪我をしないだろうかとか、風邪をひけば仕事を休んでも心配だから病院へ連れて行きます。
それらの心配は「愛」から生まれし心配で、幼い子どもは親に心配されることで愛を感じます。「愛から生まれている心配なので愛を受け取る」という簡単な図式です。
これが本当の心配です。必要な心配であり、温かい心配であり、人ならば誰でも持って生まれている心配する気持ちです。
では、偽物の心配とは何でしょうか。
ある母と娘の面談をしています。面談当初、母親は娘の事を心配する良いお母さんで、娘はそのお母さんを心配させないように努力する素敵なお嬢さんという状態でした。話を聞くと、お母さんは昔から心配ばかりしていました。
・娘が着る服はお母さんの気に入る服。派手だと心配になる。
・娘が外出すると、帰って来るまで起きている。遅いときは警察に電話。
・娘の外泊は基本的に禁止。
・マニュキュアは色を指定し、エクステは不良、耳にピアスの穴を空けるなどとんでもないことで、お母さんは心配で病気になってしまう。
・娘が連れてくる彼氏は、お母さんの考える条件に合致している必要がある。
お母さんの言うとおりに、お母さんの気に入るようにしてさえいれば、お母さんは安心で、娘のためにもそれが良いと信じて疑っていませんでした。さらに、心配している自分は良いお母さんです。そんな良いお母さんの心配事は尽きることを知りません。
・冷凍食品は悪くて、インスタントラーメンなど食べさせなかった。
・その結果、お弁当は地味で、子どもは他の子のお弁当がうらやましかった。
・駄菓子は不健康の代表で、手作りのおやつは最高峰。娘は食べてみたかったという思いを未解決なまま残している。
・友達が遊びに来たら、お母さんの見える場所で遊ばせる。親が見ているのでケンカなど起きようもなく、平和に遊べる代わりに、自分の世界や友達との世界を構築できない。
これらは不安から生まれし「心配」であり、「偽りの心配」です。「愛」という美名をまとった不安という心配です。娘が「本当は●●したかった」という思いが残っているということがその証拠です。愛から生まれし「心配」なら「感謝」しか生まれませんから。もしかしたら、表面上は感謝するかもしれませんが、お母さんが「感謝してほしい」と願った瞬間から、それはやはり、どうしようもなく「不安」から生まれし「心配」だったと認めるしかないでしょう。「愛」は見返りも必要としていませんから。
面談を続けていくと、娘さんが本音を語るようになりました。
私は、お母さんの前ではお母さんの気に入る私を演じているだけで、本当の私じゃない。お母さんはそれを知らない。だから私は隠れてやるようになった。お母さんに知られると心配させちゃうけど、自分がやりたいことはやりたかった。今でもお母さんに心配をかけないか、常に気になってしまう。もう離れたいけど、離れても気になるし、お母さんを放っておきたいんだけど、それだと私は自分で自分の事を悪い娘だと思ってしまう。
これを共依存と言います。
母子関係における、かなりややこしい問題の1つです。
不安から生まれし「心配」が、この共依存を生み出すのです。
心配してほしくない
娘さんは言います。
「私は心配してほしいんじゃなくて、話を聞いてほしいだけ。何かしてほしいわけじゃないし、理解してほしいとも今は思わない。だけど、認めてほしい。ただそれだけ。」
娘さんはお母さんからの精神的拘束から逃れたいのです。逃れたいだけではなく、取り戻したいのです。そんな悲痛な言葉です。
母親が心配すると、娘は生活していても楽しくないそうです。いつも気になってしまう自分に嫌気がさし、楽しいことをしていると罪悪感も生まれるそうです。自分の人生なのに、お母さんの人生を歩んでいるような感覚。自分を偽ってお母さんに合わせた人生は、いずれ限界を迎えます。
さらに、それほど嫌がっていた心配を、娘は親になったときには繰り返します。心配するのが愛であるとしなければ、自分は愛されてなどいなかったと認めるしかないからです。対お母さんにたいしては嫌だったとしても、対他人に対しては、やっぱり心配し、自分も心配してもらいたくなります。その心配が愛だと勘違いをしているのですから、当然の結果です。
心配などしてほしくないのに、自分も心配してしまっている。
共依存とは、そういう物語なのです。
共依存からの脱却
面談を続けていく中で、お母さんも娘さんも、だんだん本当の自分に気づいてきました。すると、何も言えなかった娘がお母さんに意見や自分の気持ちを言うようになりましたが、お母さんにしてみれば、従順で良い娘が不良になってしまった!みたいな感じになり、善意のみで面談している私が悪いということも起きました。
共依存というのは、相当ややこしいのです。頭では理解できたとしても、感情がなかなかついてこないのです。
最近、親子ケンカみたいなことも起き始めています。それまでは、親子ケンカなどしたことが無かったようで、お母さんは戸惑い気味ですが、娘は気持ちをぶつけまくり、お母さんは防衛しまくっています。完全にわかり合えていません。
でもね、それでいいのです。
心と心、本音と本音がぶつかる場所で、親子の絆は強まっていくのです。
心配したり、心配させないようにしたりして、表面上だけは穏やかに過ごしていた頃よりも、エネルギーが溢れているはずです。
そして、やがて気づくのです。
お母さんの人生はお母さんのもので、娘の人生は娘のものだと。
母子関係における「不安から生まれし心配」は共依存を生み出します。
それを克服するのは極めて困難です。
でも、ぶつかり合う、あるいはきちんと向き合うということで克服できます。
できれば、不安から生まれる心配をしないことです。
繰り返しますが、命に関わるような事は心配しても子どもは嫌がりませんし、愛を感じます。それは心配というよりも「心遣い」や「気遣い」の要素が強いからでしょう。
今回の記事は、不安から心配をしている人にとっては、本当に気に入らない記事になるでしょう。しかし、この記事が不快に思うなら思うほど、それはまた、この記事にひっかかっているということにもなります。
なぜひっかかるのかということを自問自答したとき、この記事は役に立ちます。
応援しています。