「真面目な人」と「不真面目な人」がいると、多くの人は言うけれども、本当でしょうか? その2者はくっきりと分かれれているのでしょうか。
少し考えてみればすぐに分かりますが、くっきりとは分かれてなどいません。真面目な面もあるが不真面目な面もある、あるいは不真面目だけど、真面目なところもある。人なんだから、どちらか一方に完全に寄り切っているということはないでしょう。人は多面的ですから。
ただ「真面目な人」とみんなから認識されている人はいます。このことについて、私が理解したことを整理してお伝えすることで、クラスの中にいる「真面目な子」への認識を正しく持っておく事が出来るのではないかと考えたのです。あるいは、職場の仲間への認識も正しくなるのではないかと思ったのです。
真面目な人の世間からの認知
人々が持つ「真面目」のイメージは様々であり、良くも悪くも「真面目」という言葉が使われますが、その実態についてはよく分かっていないかもしれません。
「真面目に勉強しなさい。」
「真面目に働きなさい。」
「真面目にこれからのことを考えなさい。」
このように他者から言われたとしたら、それが正しいようにも聞こえますが、
「真面目に勉強している人」
「真面目に働いている人」
「真面目に今後のことを考えている人」
となったら、少し違和感が出てきます。「ちょっと真面目すぎるのよね~。」なんていう声も聞こえてきそうです。また「真面目すぎて考えすぎて大変そう」という感じも受けます。
「楽しく勉強をしている人」
「一生懸命に働いている人」
「真剣に今後のことを考えている人」
これだとどうでしょうか。「真面目」よりも素敵な感じがするのではないでしょうか。おそらく、これは場面限定という印象があるからだと思います。楽しんでいるときも一生懸命なときも真剣なときもあるけど、そうでないときもあるという場面限定です。これに対して「真面目」という言葉は場面全てという印象があります。朝起きてから夜寝るまで真面目に生きているという印象。
「彼は真面目な人だよ」と紹介されたら、少し堅苦しい感じがするのはそのためでしょう。自分が真面目でないのなら、自分が悪いと感じさせてくれる存在にもなりかねません。近い存在であればあるほど、社会的には良いのだけれども、ずっと一緒にいるのなら堅苦しく感じてしまうということになります(まあ、それも自分が勝手にそう思ってしまうだけなのですが・・・)。
小学校のあゆみにおける所見欄で、「授業を真面目に受けています」と、私は書きません。「授業を真剣に受けています。」と書きます。または「集中して取り組むことが出来ます」と書きます。それは「真面目」という言葉がもつマイナスのイメージを感じるからです。
「真面目」は美徳でもあるはずなのに、どこか違和感がある。おそらく世間の認知も同様なのではないでしょうか。
真面目とは何か
真面目とは、ごく簡単に一言で言うと「社会的に適合している」ということでしょう。社会のルールに従い、社会が良いとしていることを愚直なまでに実践し、人を傷つけず、誰からも非難されない。そのような生き方です。
これは、社会的な問題は皆無に等しいので、社会的な問題に対しては完璧に非の打ち所がない正義によって解決してしまいます。
ですから、社会的な側面に関してはオールオーケーです。
でも、もう一つの側面、自分自身の問題でもあり、精神的な問題に関しては、ほとんど何も解決などしていません。言い換えると未解決です。
例えば、家族の中でなんらかの問題がある場合、社会的なルールや世間的な価値判断に則って行動していけば、見た目には何も問題は起きず、あるいは問題があっても一応の解決は見られます。
しかし、外側にあるものを活用しての解決ですから、自分の内面を表出していないわけです。心の成長は、ぶつかり合うことによってのみ成長しますから、心からの触れ合いを表出しないのならば、心は成長していないということになります。
「家族みんな仲が良い」というのは、憧れますし理想だし、素晴らしいと思いたくはなりますが、心の奥底ではモヤモヤした気持ちが抑圧されてしまいます。抑圧されすぎて、無意識の奥底にしまわれてしまいますから、気づくことも不可能になってしまいます。
それは、社会的には成長していても、精神的には成長を伴っていないということで、疑似成長と言えるかもしれません。ベストは、社会的にも精神的にも成長です。程度の差はあっても、両方の成長がバランスの良い成長と言えます。
まとめると、真面目とは、社会的側面に適合し、社会的側面について成長することであり、同時に精神的側面の成長を放棄している状態です。
本人がそれを選んでいるのですから、周りがとやかく言うような問題ではないのですが、真面目過ぎると、少々ややこしい問題を抱えてしまいます。
誤解がないように付け加えまが、真面目は良いのです。少なくても社会的にはとても良いのです。そもそも良いとか悪いとかは無いのですが、社会的には多くの人から良いと思われるということです。問題は「真面目過ぎ」です。何でも過ぎるとややこしくなるんですよね。
アリストテレスは「中庸の徳」という理論を提唱していますから、なんでもほどほどが生きやすいし、バランスが取れているのです。
真面目過ぎるとややこしくなる
真面目過ぎる人は、社会にとって従順ですが無理をしています。無理をしている分だけ心の奥底に敵意を秘めてしまいます。
その中で一番象徴的な敵意が「不真面目な人に対する敵意」です。
真面目過ぎる人は、とにかく「不真面目」な人が嫌いです。正確には「不真面目に見える人」が嫌いです。全てにおいて不真面目な人など、ほとんど存在しませんから、真面目過ぎる人から見て、不真面目に見える人ということになります。
自分は信号を守って歩行しているのに、車が来ていないからという理由で赤信号で渡る人はダメな人である。
自分は困った人がいたら、一緒になって考えているのに、自分には関係ないといって不親切にしている人は人間失格である。
自分はやりたくない仕事でも快く引き受けるのに、「私にはできません」と言って放棄するような人は責任感の無い人である。
自分は親の言うことを100%聞いて親孝行なのに、親に反抗する人がいるなんて、言語道断である。
あげればきりがありませんし、上記のことが不真面目だとも言えないのですが、とにかく敵視してしまいます。敵視しているけど、それを言ってしまったら批判になってしまいますから言うわけにもいきません。人の悪口を言ってはいけないという倫理上のルールにも従っていますからです。そうやって真面目な人は自分の胸の内に敵意を秘めて我慢し、その敵意を持ってしまう自分を感じないようにするか、なるべく見ないようにしてがんばっています。
なぜ敵視してしまうのか。なぜ怒りを感じてしまうのか。
それは簡単に言うと「自分は我慢しているのに、あいつは何だ!」という怒りです。それはまた「我慢している自分に怒っている」ということでもあります。「我慢」しているのだから、本当は自分もしてみたいのです。うらやましいのです。
「好き」と「嫌い」は同じベクトルです。大好きだった人が一瞬で大嫌いになることがあるのは、ベクトル方向が一緒だからです。こういう生き方が良いと痛烈に思い込んでいるということは、こういう生き方はけしからんと痛烈に思い込んでいるということでもあります。
結局、真面目過ぎるというのは、他者を批判しているのにそれさえも真面目過ぎるから言えない。いえ、正確には言っちゃうのですが、自分の意見としてではなく、社会のルールを持ち出して、存在しない「普通は」とか「一般的には」とか「みんな」という他者を利用して正当化して言うのです。
これが「真面目な人は堅苦しい」という印象を持たれる原因でしょう。言っちゃう人は堅苦しいと批判の対象となる「真面目」。我慢して言わなければ「いい人だ」と賞賛の対象となる「真面目」です。
批判されようが、賞賛されようが、「真面目」であることによる敵意は存在しています。出すか出さないかというだけです。さらに、批判も賞賛も、所詮は他人の評価に過ぎません。自分らしく生きるのに、他人の評価で生きているということになります。他人の判断によって生きているとも言えます。
真面目ではなく誠実に生きる
真面目な人がなぜ、あんな犯罪を?というようなニュースを見聞きすることがあります。そのような短絡的なニュースの報道は「真面目な人の持つ敵意」というものを理解していません。
真面目であったために多くの事を我慢し、自分らしい喜びや悲しみを経験できなかったのです。あまりにも多くのことを我慢してしまったため、楽しんでいる人が許せないのです。真面目であることで、その人自身が持つ不安や怖れを回避してきたのです。いえ、回避せざるを得ない状況であったのでしょう。
私が今回の記事で一番お伝えしたいことは、真面目すぎると苦しいでしょうということ。そして、それを手放しても大丈夫ですよということです。
真面目より上位概念である「誠実」というものへシフトしていけば、真面目な人が持つ正義が人の為に輝きはじめます。「真面目すぎ」は社会的に作られたルールに従順しすぎているだけなので、そこに自分の本当の願いや思いを加えること、つまり心の触れ合いに向き合うことで「誠実」という上位概念へシフトできます。
人間味が加わることで精神的な成長も進み、バランスが取れてくるでしょう。
「真面目」は良いのです。「真面目すぎる」のが苦しいのですから、方法は次のうちのどれかになると思われます。
①真面目すぎの「すぎ」を取り除く。
つまり「まあ、これくらいならいっか」という練習をすること。その練習は他者ではなく自分自身に対してです。インスタントラーメンが許せないのなら、自分で食べてみる。赤信号を無視してみる。自分の意見を他者にぶつけてみるなど、自分自身で経験していくことを許していくことで、他者の行動も許せるようになります。
②「楽しく」「一生懸命」「真剣」「集中」などを仲間に入れてみる。
すると「真面目に楽しく」「真面目に真剣に」など、場面限定要素が加わることになります。そういう言葉を意識して行動してみるということです。
③不真面目な人と仲良くなってみる。
おそらく嫌いでしょうけれども、俯瞰しながら積極的に付き合ってみる。嫌いであればあるほど、その人が持つものにひっかかってしまう自分に気がつくことができるはずです。そしてやっぱり受け入れて実践してみる。
誠実とは何かというと、難しい話になるのですが、誠実さの持つ一面に「自分で考える」ということがあります。誰かに言われたからやるのではなく、自分がしたいからやるという一面が、誠実の持つ1つの要素になります。
先ほども述べましたが、「真面目」は社会のルールに従っているだけです。であるならば、誠実の持つ「自分の意見」というものを放棄しているということにもなります。そこを突破するために、自分自身でやってみるという経験が必要だという理論です。
もし、自分が真面目であることに嫌気がさしたのなら、真面目であったことを嫌がるのではなく、その先があることを信じて、真面目を誠実に進化させれば良いのです。人と心の触れ合いを起こせば、当然トラブルも起こるでしょう。しかし、そこから目を背けてはいけません。そのトラブルが精神的成長の突破口であり、誠実への近道です。
※嫌気がないのなら、変える必要はありません。