Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の21年間の実践理論

先入観を落としてありのままに見ること

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 人は必ずと言っても過言ではないほどに先入観に囚われています。その先入観は様々な理由によって構築されているので仕方のないことですが、もし先入観を落として物事を俯瞰することができたのなら、物事の判断というものが正確にできる可能性が広がります。教育現場では「多様な物の見方」みたいなものを推奨していますが、多様な側面というのは、中心からの派生です。ですから、どうしても本質的なもの(中心)を理解する必要があるということで、その本質的なものを理解するために「先入観を落とす」というのが今回のテーマです。

 

3年生国語『三年とうげ』

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 光村の3年生教科書に『三年とうげ』という物語文があります。教材としての役割は、物語文の構成を学ぶことにあります。登場人物とか山場とか起承転結とか事件とか多岐にわたります。そして物語文の構成を学んだ後は『宝島の冒険』という単元に進み、実際に物語文を書いてみるという実践に入ります。

 学んだことを実際に使って表現してみようという単元構成になっており、さすがに考え抜かれて作られているなぁ~と感心してしまいます。

 さて、この物語文を学ぶということは当然やりますが、もう一つ、私は物語文そのものを楽しむということを大切にしています。物語文そのものが持つ魅力や面白さ、読解力というものを育むということです。

 だって、そもそも読書は面白いからするのであって、面白くも何ともないのなら読書はしません。読書は修行ではないし、しなくてはならないものでもないのです。特に物語文は娯楽の要素が多分にありますし。

 そこで、物語文を楽しむために必要なことが出てきます。それが「読解力」です。何を言っているのかサッパリ分からないのでは、読むことが苦痛でしかありませんし、例えなんとか読んだとしても何も心に残りません。

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 では、読解力というのは何かと言うと、文章を正確に読み取る力です。

 これには、2つのステップがあり、1つ目が「書かれている事を正確に読む力」。もう1つが「書かれている事から書かれていないことを読む力」。

 その中の1つ目に焦点を当てて考えてみます。

 書かれている事をそのまま読み取ること。これが簡単なようで簡単ではありません。なぜかというと、そこには今回のテーマである「先入観」があるからです。

 

「あるところに、三年とうげと呼ばれる峠があります。あまり高くない、なだらかな峠です。春にはスミレやたんぽぽ、ふでりんどうが咲き乱れ、れんげつつじの咲く頃は、だれだってため息のでるほど良い眺めです。秋にはかえで、がまずみ、ぬるでの葉が美しく咲きます。」(本部より抜粋)

 なんとも素敵な峠のようですが、そこで転ぶと3年で死ぬという言い伝えがあるのです。それで三年とうげと呼ばれるようになったのです。

 

 これを正確に読み取るための発問をします。

 発問「三年とうげは特別な山でしょうか?」と。

 すると、たいていの場合は「特別だ」と答えます。

 きっと、「三年とうげ」と呼ばれていることや、美しく咲き乱れる景色などが、そう思わせるのでしょう。そこで、最近導入されたクロームブックを使って、分からない言葉を調べさせます。たんぽぽは分かるけど、れんげつつじだとか、がまずみ、ぬるでなど、おおよそ子ども達の生活圏にはない言葉を調べさせます。

 クロームブックのすぐれているところは、ネットに繋がっているので、説明と共に画像が出てくれるところです。言葉では分かりにくくても、画像を見れば一目瞭然です。「百聞は一見にしかず」という言葉通りの現象が起きます。

 すると、調べた植物たちが、どこにでもあるありふれた植物であることが分かります。山はどんな形でしょうか。「あまり高くない、なだらかな峠」との記載があります。どこにでもある植物とあまり高くないなだらかな峠。

 つまり、どこにでもあるような普通の山なのです。

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 この普通の山で転んだら3年で死ぬという噂が特別なことではありますが、山そのもの、峠そのものは特別な存在ではありません。

 

 三年峠が超特別な山だと思って読み進めるのと、これはどこにでもある山であると思って読み進めるのでは、物語全体の印象が変わります。

 つまり、特別な山で転んだのなら、特別なことが起こっているということになりますし、普通の山で転んだのなら、ただ転んだだけということになります。物語文は、ただ転んだだけで右往左往する様子をおもしろおかしく描いているのです。

 

 このように、書かれていることを書かれているままに読み取る力というのは、先入観を落とす訓練が必要だということなのです。

 

世の中は先入観だらけ

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 先入観は物事の判断を鈍らせます。

 その先入観は、本当に様々な影響の元に複雑に構築されているので、それが先入観であることに気づくことすら難しいのが現実ですが、物事を正確に見る(俯瞰する)ことが、正確に判断することに繋がっているので、いくつかの例を紹介しながら説明します。これから説明することは、人によっては不愉快になるかもしれませんが、私は批判しているのではなく、ただ説明するだけなので、気にしないでください。

 

ケース1 肩書き問題

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 日本人は本当にどうしてそうなのかな?と思うくらい肩書きが大好きなようです。まあ、日本人だけではないのでしょうけれども、私は日本人なので他国に関しては経験がありません。

 学校で研修会をすると、助言者に来てもらうことがあります。たいていは指導主事さんなんですが、紹介するときに、随分と気を遣う必要があるようで、私はそれをいつも疑問に思っているのです。

「○○なんちゃらの義務指導班のなんちゃら主事の課長だとか係長だとか主査だとか主幹だとか・・・(あまり覚えていません)」

 まあ、長いこと。そしてこれを間違えると失礼なんですって。

 言われている本人は、その肩書きに固執しているということはないかもしれませんが、その肩書きに固執したいという雰囲気があるということが問題なのです。

 指導主事は、もともとは一般教員です。一般教員の別の道が指導主事であり、活躍の場を現場から行政に移しているというだけです。ですから、その役割が違うということであり、それはお互いに協力し合いながら教育全体へ関わるということであって、どちらが偉いとか、すごいとか、特別とか、そういう問題ではないのです。だから気を遣う存在ではなく、共に歩む存在です。

 このことに照らし合わせると、全ての肩書きというのは、その人を役割、あるいは仕事を分かりやすくしているものに過ぎません。分かりやすいので便利だということであって、その肩書きだけを見て盲目的になることはお勧めできません。

 どうも多くの場合、この肩書きを過大評価してしまう。肩書きをついた人を見ないで、肩書きを見てから判断しているのではないかと。

 物語文の「書かれている事を正確に読み取る力」と、「肩書きのある人の言動を正確に見とる力」というのは共通している部分があります。肩書きに左右されるのではなく、まず人を見て、それから肩書きを見るぐらいでいいのではないでしょうか。まあ、それでも自己紹介なんかでは便利ですけどね。ただ便利であるはずの肩書きを過大評価することで判断を鈍らせるのです。

 

ケース2 流行

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 日本人は、どうしてそうなのかな?と思うほど流行に敏感です。その流行は誰かが仕掛けとして作り出していて、経済を動かすためには必要であり、物が売れるためには流行を生み出すしかないということも分かるのですが、とにかくまあ、流行というのは常に危ういです。

 最近の教育界では、アクティブラーニングだとか、単元を貫くとか、プログラミングだとか、次から次へと新しい言葉が押し寄せてきています。そして、最新型=最先端=良い!とされがちなのですが、はたして本当にそうなのか?と聞かれれば、かなり怪しいというのもまた現実です。これは歴史が証明しています。

 もちろん、新しい形を模索することは大切であり、そこから道が広がるということも多くあります。私がここでお伝えしたいことは、流行というものには、必然的に生まれしものと、どうやら意図的に仕組まれて生まれているものがあるということで、それらを全て「最新型で良い!」という先入観が危険だということです。

「温故知新」という四字熟語が示すように、古いものを大切にしながら新しい物を構築するという姿勢が良さそうであり、そしてまた古い物は良いというのも先入観が入っていないかどうかという疑いも必要であるということです。

 ただまあ、流行は楽しむものと割り切れるなら便利で、楽しいのだからそれでいいのだと思います。

 

ケース3 マスメディア

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 最近はインターネットの台頭により、以前ほどの影響力はなくなりましたが、それでも以前として情報メディアの主役はテレビでしょう。テレビ報道の影響力はまだまだ世の中に君臨しているというのが私の感覚です。

 影響力があるということは、先入観を持たせやすいということに繋がります。

 しかし大前提として、報道は編集ができるということも知っておく必要があります。報道は、伝えたいことをより効果的に伝える手法に長けているのです。

 先日、コロナ貧困に関する特集番組を観ていました。コロナの影響で職がなくなり、食べるものにも困っているという人が登場して、いかに苦しいかということを語っていました。そして丁寧に貧しい食事のシーンなんかも撮し、さらにはナレーターが深刻なトーンで説明を加え、あげくにはBGMまでもの悲しい・・・。

 しかしね、その登場している人は太っていたのです。つまり、十分過ぎるほどに食べているのです。飢餓で苦しんでいる人たち、本当に貧しい国の人たちがみたら怒ると思いますよ。

 別の番組では(どうもコロナで大変なことになっていると報道したいらしい)、ある人が職を失って、何度も死のうと考えているということでした。それは大変だということでサポートする人たちが善意で全力でサポートします。

 生活保護を受けるためのサポートをし、住まいを用意し、職まで斡旋するという手厚いサポートです。生活苦の人は言っていました。「色々と職を見つけたりするんですけどね、タイミングが合わなかったりしてね・・・。」と。別の生活苦の人は言っていました。「住まいを確保してもらったんだけど、なかなか次に進む気力が沸かない。」と。

 つまりね、コロナで職がなくなって大変なことは否定しませんが、条件がそろったとしても進めないのなら、それはコロナが原因ではないということです。

 

 編集された報道は、常に伝えたいことを効果的にしています。先入観をかき立てることに荷担しているのです。それを見たい人がいるからなので、それでかまわないのですが、先入観を落とすことができれば、現実を正確に見ることができます。

 

ありのままを見るということ

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 先入観を落とすというのは、ありのままを見ることに繋がります。

 人は自分が見たいようにものごとを見るものです。それはつまり、人は常に先入観を持ってものごとを見ているということです。言い方をもう少し刺激的にするなら、「人は自分の都合の良い解釈をするために都合良く見ている」ということになります。

 見たいように見る。それはそれで理由があるのでいいのですけれども、そのように見たがっている自分はどうしてそのように見たいのかな?という問いをしてみることをお勧めします。その先入観はどうして自分に必要なのかな?と。

 実のところ、先入観を落とすというのは、最終的にはその先入観がどうして生まれているのかという自分自身についての理解に他なりません。

 実のところ、このブログは「教育ブログ」なので、最後に教室に応用できる技術としてお伝えします(教育ブログなのに、教育関連が少ない・・・)。

 

 教室にいる子ども達の姿を、ありのままに見ること。

 ありのままに見られた子は、嬉しくなります。

 嬉しくなると、エネルギーが増えます。

 すると、意欲的に活動しはじめます。

 

 これを、学校と家庭の両方で実践できたのなら、子ども達の力は開花しはじめます。勉強ができるとか、お行儀がよいとか、そういうレベルではなく、知的好奇心が旺盛になり、生き生きとしてくるということです。テストの点数があがるということは結果のおまけとして起こるかもしれませんが、本当の結果は、子ども達の目が輝き始めるということです。

 

 今回の記事をまとめます。

 ありのままに見る力。

 それには先入観を落とすことが必要。

 落とす方法は、その先入観が生まれている自分自身への問いかけ。

 

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 最後になります。今回の記事は先入観を落とすことで、ありのままに見ることに繋がっていくという内容でしたが、ありのままに見る方法は1つではありません。先入観に気づき、それを落としていくというのは1つの道であって、それしか方法がないということではありません。

 道はいくつも用意されています。あたなの周りには、たくさんの現象として道の入り口があるはずです。怖がらずに、是非入ってみることをお勧めします。