Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の21年間の実践理論

理想の親は一見 理想とはほど遠い

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 親の責務とか、親としてどうあるべきかとか、様々な場面で子育てを考えてみると難しく思えます。専門的な用語を使えば、父性とか母性とか愛着形成とか安全基地とか褒めるとか叱るとか、実に様々な視点が指摘されます。

 今回の記事は、そんな専門的なことは横に置いておいて、どうすればすくすく育つのかという具体的な方法の1つを紹介します。もしすでに実践されている人なら納得できるでしょうし、そうでないのなら、お金は1円もかかりませんから、是非挑戦してみることをお勧めします。

 

理想の親は普通じゃない

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 理想の親というのは、一見すれば一般的な理想の親とはほど遠いということから説明します。一般的というのは、通常、普通はということになりますが、要は多くの親が信じ込んでいる「理想の姿」となります。

 

・子どもの事を一番に考える親

・子どもの良き相談者である親

・規則正しい生活を実践できる親

・子煩悩な親

・お手本となる親 

 ・・・・等々。

 

 上記の親の姿に異論があるわけではありません。もしも、上記の事を「愛」をベースに発動しているのなら素晴らしいの一言です。しかし本当の「愛」というものが難しいため、これらのことには危うさもあります。そして、これらを忠実に危ういままに実践するならば、子どもは気を遣うように育ちます。つまりは他人の顔色を見て育つのです。

「私の親は尊敬できる素晴らしい人物です。」

と子どもに言われると嬉しいかもしれませんが、危険信号です。本当の愛というのは気づかれにくいという性質があるため、全面的に出てきちゃっている段階で危険なのです。まあ、社会的には圧倒的な支持を得てはいますが・・・。

 

 ではまず、上記の理想を普通ではない要素を加えて、本当の理想の姿に変えるとどのようになるかと言いますと・・・

 

・子どもの事を一番に考える。→子どもは2番目で1番は自分。

・子どもの良き相談者である。→良き聴き手である。

・規則正しい生活を実践。→そうではない日も必要。

・子煩悩。→子どもと一緒に楽しめる。

・お手本となる。→なる必要は全くない。

 

 一つ一つを説明すると長くなってしまうので今回は取り上げませんが、ここで理解してほしいことは、「理想的」だと信じていることは、少し掘り下げて考えてみないと危険性をはらんでいるということで、一般的に「立派だ」と言われる行動なら、かなり危険であるが、一般的ではない要素を加えると「本当の理想」に近づけますよと言うことです。

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 ここで、今回の記事で述べている「理想の親」の定義をはっきりさせておきます。言葉は常に曖昧で、言葉で正確に伝えるのは極めて困難ですから、分かりやすくするために「理想の親」というときの「理想」とは何なのかということを限定するしかないのです。

 今回取り上げている「理想の親」の「理想」は、子どもにとっての「理想」です。親にとっての「理想」ではありません。子どもがほしい親の姿ということです。ですから、同じ親の立場から見れば「うん?」と思えるようなことでも、その子どもが生き生きしているなら、子どもにとっては「理想的」であるということになります。これが、親の立場や世間一般的、あるいは常識的という側面から見れば、「理想」からはほど遠いというのが今回お伝えしたい内容になります。

 

誰からも気づかれないのなら理想的

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 子どもが一番ほしいのは「愛情」です。この「愛情」という時の「愛」を理解すれば、気づかれないということが理解できます。

「愛」というのは様々な表現で説明されていますが、「愛」は「自由」に置き換えることができ、「自立」を促すということを今回は使います。

 幼い子が夢中になって遊んでいるとします。その姿を微笑んで見守っていられるのなら、それは「愛」です。子どもは夢中になって遊んでいるので、親の見守りには気づきません。夢中になっていることに集中しているからです。

「はじめてのおつかい」という番組がありますが、子どもが何かに挑戦しているときに、手を貸さずに見守ることができるのなら、それは「愛」です。子どもは自分の力で達成した成功体験を持ちますから、親の見守りには気づきません。

 子どもが「ただいまー」と家に帰ってきたら「おかえりー」という言葉が返ってくる。これが日常的だと、日常的すぎてそのありがたさには気づきません。

 このように、「愛」は気づかれないという理由から、親としては少し物足りないと感じることもあるでしょう。そこで、その「愛」であるものを主張してしまうということが起こるのですが、主張した段階で「愛」は「愛」ではなくなります。

 気づかれないのなら「愛」と理解してください。

 気づかれるのなら「愛」ではありません。

 

簡単にできるけど、ほとんどやっていない理想の親の姿

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 さて、ここまで(子どもにとっての)「理想」は、一般的な理想からは遠い場所にあるということを説明してきました。子どもにとっては「理想」であるけれども、世間的には(大人の視点では)理解されないというところがポイントです。

 ここで今回お伝えしたい具体的な理想の姿を紹介します。

 簡単にできるのですが、ほとんどの人はやっていません。やっていない理由は難しいからなのでしょうけれども、やろうと思えば簡単にできます。

 それは、親が自分の人生を楽しむということです。

 子どもにとっての親は、幼い子にとっては全てであり、大人になるまでの間はお手本となる大人です。その親が楽しそうに生きていれば、「そうか、世の中は楽しいんだ!」ということを経験的に学習します。親が失敗しても「まあ、いっか!」と呑気にしていれば、子どもは「人生は失敗もあるけど、たいしたことないんだね。」と知ります。親が楽しそうにしていれば、子どもは「自分も楽しんでいいんだ!」ということが分かります。そして、子どもが自分と関わっている親の姿に「お父さん、お母さんは楽しそうだ」という姿を見つければ、「自分は親を楽しませる存在なんだ!」と自己肯定感が育ちます。

 このことが成立するということは、逆も成立します。

 一般的な理想を求める親というのは、これと逆のことをしてしまいがちです。親は苦労しなければならないとか、親の責任を果たさなければいけないとか、親は立派であらねばならないとか、まあ、色々ありますが、そんなことをすれば、子どもはその通りに正確に受け取ります。

 つまり、人生というのは苦労の連続であり、親になるということは大変であるという感覚が骨の髄まで染みこんでゆくのです。

 一般的に私たちは「人生は苦しいものだ」という考え方を不幸な人たちから教わってきたのです。幸せな人は「人生は楽しい」と教えるのです。口では「幸せだ」と言っておきながら、不幸そうにしてはいけませんよ。そんなことをすれば、子どもは「楽しくなくても楽しいフリをしなければならないんだ!」と学習します。

 

『宇宙兄弟』という漫画があります。名作です。

 主人公はムッタで、弟のヒビトはとても優秀です。2人とも宇宙を目指し、2人とも宇宙飛行士になります。そんな2人の両親もちょくちょく登場します。

 一見、たいした親ではないのです。教育熱心でもなければ、子どもの事を心配するわけでもなく、常に呑気そうにしています。そして、自分の人生を楽しんでいるのです。 これが分かりにくいですが「理想の親の姿」のひとつの側面です。

 

 私が気に入っているこんなエピソードがあります。

 ムッタが宇宙へ旅立つ前、親とネットで通信します。大抵の場合は親と濃密な話をするのですが、普段はしゃべらない父親が次のような話をムッタにします。

「昔、みんなで旅館に泊まりにいったことがあるだろう。その時に、活け作りの刺身が出たことを覚えているか? 刺身になっているけど、口をぱくぱくさせているのを見たヒビトが、刺身をその魚に食べさせようとしたとき、「ああ、こいつはダメだ」と思った。昔ムッタが拾ってきたオルゴールの曲が童謡であることを知らず、曲をかけながら部屋で何かに黄昏れているのを見たとき、俺は、「あー、こいつもダメだと思った。」でも、その2人が今は宇宙飛行士だ。思う存分楽しんでこい。」

※うる覚えですので、正確な言葉遣いではありません。

 主人公のムッタは勇気づけられて宇宙へ行きます。

 ムッタの父さんは、ダメだと思っても、その時は何も言わなかったのです。ダメだと思っただけで、たいして深刻に考えていません。一方のヒビトもムッタも、ただ楽しんでいるのです。つまり、楽しんでいるのを邪魔していないのです。

 他にも父さんは実家のムッタの部屋を勝手に撤去して自分の陶芸部屋にしちゃったりします。自分のやりたいようにやっているのです。

 

 親が自分の人生を楽しめば、子どもはそれを見て安心します。

 親が干渉してこなければ、子どもは自由な発想で楽しみます。

 自分の人生を楽しめる親だけが、人生は楽しいと伝えられるのです。

 

 是非自分の人生を楽しむことをお勧めします。