Nayunayu先生 ~愛のある教室~

現場教師の24年間の実践理論

自信はないことを理解してもらうのは難しい

 どうも私は他人から見たら自信があるように見えるみたいです。でも私には自信という概念そのものがないのです。「自信はない」というのは、その言葉通り「自信は存在しない」という意味です。これを理解してもらうのがとても難しかったのですが、自分なりにうまく説明できたので、記録として残しておきます。

 

そもそも自信の話をしているのではない

 私は職業上、同僚との対話や保護者との面談があります。

 私としては、疑問に答えたり、どうすれば良いのかという道筋を提供するわけですが、それが理解できないとき「先生は自信があるんですね。」と言われます。

 しかし私は「自信の話ではないんですよ。」と伝えます。これが良いことだとか、悪いことだとか、そういう話をしているのではなく、ただそういうものだという話であって、そこに自分の考えが介在しているということではないのです。

 私は、もし自分の意見を言うのなら必ず前置きをします。

「今のところの自分の解釈では・・・」とか

「これはあくまで自分の考えですが・・・」とか

「自信はありませんが、おそらく・・・」とか。

 私が自信たっぷりに言っているように聞こえることに関しては、そもそも自信があって言っているということではなくて、ただそうなっているということを言っているだけなので、自信そのものは存在していないのです。

 つい先日も、体調不良で困っている人に、それは生活習慣が乱れているからなるのであって、そこを変えないで薬で叩くことは根本的な解決には至りませんというようなことを伝えました。

 するとやっぱり「先生は自信があるんですね。」と言われてしまいました。

「いや、自信の話じゃないんです。理解しようとしてください。もし、治りたいのならですよ。そして、何度も言いますが、私としては情報として提供しているだけなので、それをどう受け取るかについては関与できませんから。」

 とまあ、お決まりのやりとりになってしまいました。

 

 自信などありません。自信があって話をしているのではなく、ただそういう原理・原則で世の中は成り立っているという当たり前の話をしているだけなんです。それが「自信がない」ということ。

 

 例えば「川の水は流れています。」と伝えたとしましょう。

「そんな、まさか、先生は随分と自信たっぷりに言うのですね。」と言われたら困るでしょう。だって、流れているものは流れているのですから。自信の話ではありません。ただそうだというだけです。

 これは目に見える話なので分かりやすいですが、目には見えないことはどうでしょうか。例えば「地球は太陽の周りを回っていて、地球そのものも自転していることが今のところ証明されています。」と伝えたとしましょう。

 これは一般人にとっては目にすることはできず、実は感じる事も難しいです。せいぜい、朝が来て昼になって夜を迎える現象から納得させるしかありませんが、これを「自信があるんですね。」と言われても困るわけです。

 あるときは、子どもの教育方針について、手に負えない子に対して私がやっていることが理解できない。でも、子どもは明らかに良くなってきている。でも、私のやっていることは不可解で同僚の同意を得られない。そこで説明を求められました。

 私は説明します。なぜ私のやっていることが効果があって、今やっていることがどうして良いのかということを。でもやっぱり「先生は随分自信があるんですね。」という批判めいたことを言われちゃいました。

 だから自信の話ではないんです。「そういう原理でそうなっているという説明をしているだけです。」と説明したんですが、まあ、たいていは駄目です。私が自信満々でやっているように見えるのでしょう。そう見えるということについては、私にとっては全く関係ありませんし、理解しようとしないのなら、それもまた私の管轄外になります。

 

 でもね、そういうことになっているということを理解すれば、きっとさらに色々分かるようになって、面白くなるので、求められれば説明はします。

 

 自信の話ではないということを理解してもらうのは難しいのですが、先に述べた川の話が自分なりに分かりやすく説明できたかな?と思ったのでお裾分けでした。

 

 うーん、文章全体が寂しい・・・。